お題「#この1年の変化 」
今時の時事といえばコロナとオリンピック。
例に漏れず言いたいことはあるけれど、世間に飛び交う膨大な意見交換と類似し、結局自分の言葉など陳腐になるのが目に見えているというか。
また、時事ネタと向かい合うと自分の無力さや勉強不足に直面する。
それは周りも同じで、知識不足の発言を見るとイラっとする。
簡単に言うと、頭が悪いのに語るな。みたいな。
だから私はただの主婦なのだが、こういう表現は差別的ではある。
ただ、主婦とは狭い存在意義の中で答えもない問題を山ほど抱えて、わけのわからんルーティーンをマルチタスク全開でこなすアスリートだ。
外界から遮断されているのではなく、競走馬のように前しか見えない。
そのくせ歳だけはしっかり重ねるのだ。見た目相応に学びが無くても仕方ないじゃない。と、叫びたい。
自分磨きでスキルアップしたり、旦那の留守中にランチできる有閑マダムは全主婦人口の頂点に君臨するVIPなのだ。ドラマやワイドショーやバラエティー番組で見るハイソな主婦は幻だ。
現実はそうなりたいとあがき、日々インスタに励む。
さて、そんな主婦多数派の私がコロナ禍を体験し、うっすら気付いた人間の本質と自然界の選別。
昨年の今頃、私は真剣に家族に語ったことがあった。
この病がもし、無症状の若者に相当数蔓延していて、これを媒介にしてそこらじゅうのご年配や弱者にうつしていたら?
増えすぎた人類に対する自然界からの選別ではないか?
医療が発達し、不自然に人が長寿になり増える。
地球や自然界にとって人間は病原体でしかないため、地球規模の治療が始まったのでは?と。
聞かされた家族の頭にハテナマークが見えるほど宗教ちっくな仮説だが、私はれっきとした無宗教である。
ただ前にも記した通り、ひとり子育てを終了し、解脱している。
ときたま人気のなくなった世界で、ロックダウンした町の道路をワニが横切ったり、山から動物が降りてきたとかいう海外ニュースを見るたびに、なにかを確信していた。
2000年頃にテロや事故で飛行機が立て続けに落ちたり行方不明になったときも同じことを考えていた。地球規模での口べらしが始まったのではと。
次は自然災害ではないかと思い、地球規模の報復に備えサバイバル家族を見たりした。
コロナで見えた人の本質は、いい部分も悪い部分もあるが、一貫していえることはそれがその人物の「本性」であること。窮地に陥り化けの皮が剥がれた姿。
例えば村八分のような差別、隣組みのような見張り合い。
そして予期せぬ助け合いや人のために生きると決めた人々。真実の感謝。
まさに戦時中さながらの心理状態で、世界中が多方面から見えない壁で押さえつけられ、世界中が一触即発な状況だ。
そんな中、鼻に付く集団も口裏を合わせたように湧き出てくる。
安全な家の中からぬくぬくとテレビやネットばかり見ているヤツほどよく吠えるよな。
フラストレーションは変な正義感で無理くり理由付けされ、言葉の散弾銃は無差別に発射される。
なんだ「マスク警察」って。ばか。
リアルから逃避し現実離れをすると、映画の主人公のように安全圏が確立してしまい、不老不死の無敵になる。
どの面下げて平然と正義をかざし、浅い自分の意見を通すために無差別攻撃するのだろう。リアルで討論できないくせに、自暴自棄になると他人を巻き込み道連れにしたがる。
その言葉の攻撃を受けている相手はAIではない。
心があり、感情があり、リアルと直面している赤の他人。その名も生身の人間だ。
そして毎日のように代わり映えのない話題を繋ぎ紡ぐテレビ業界の忍耐強さ。
こればっかり見ていたら世論の殆どはテレビ通りなのではないかと、洗脳された会話になってしまう。
「~だってよ~?テレビでやってたもの。」という恐ろしい口癖。
あまりにも話題がマンネリ化したのか、感染者数が急激に増えたり、地震が起きたり、地獄が起きるたびに司会者が意気揚々と多弁になる姿に腹が立った。
クラスター情報は公開処刑ですか?事後報告に何の意味があるのだろう。もう手遅れだよ。豊洲の報道はしないのですか?
飲食店では飛沫感染の恐れ。でも時短で営業OK。お店は感染対策を必死にアピール。実際きちんとやっている。でもそこに訪れるお客さんをわざわざ取材し、「今日はどうしてここに来たのですか?」お客さんもしどろもどろ・・。
逆に問う「今日はどうしてここに来たのですか?」製作サイドには意志がある人間はいないのか。やれと言われたからやりました。は、ただの遠隔殺人だ。
もともとテレビは夜のニュースしか見ない生活だったのだが、ここ最近昼から見ることも多く、民法のやってることはギリ迷惑ユーチューバーだな。と、今更気付いてがっかりした。
結論みんな自分だと思う。
かくゆう私は逃げ出したい症候群が発症し、たまに県内の道の駅を周遊しては夕飯を爆買いし、地域に貢献(建前)していた。
それに比べ、他県で暮らす長女はネットスーパーを利用し、堅実に自粛。地がインドアなので大して苦もなく。
下の二人も最初の緊急事態宣言のときはまじめ一貫。
ベランダにさえ一歩も出ず、YouTubeとフォートナイトだけで一ヶ月過ごしきったため、学校が再開した夏頃には立派な不登校になり果てた。
長男は定時に家を出れる割には電車から降りられずぐるぐる周回し、駅については吐き。駅のトイレに何時間も籠城。そしてようやくたどり着いた校門を通りすぎてそのまま失踪。次女は毎日昼頃登校し、タピオカ片手に帰宅を最後に部屋に引きこもった。
‥そして私と共に二人とも二ヶ月間カウンセリングの刑に服した。
実は二人ともとあるスポーツの主力選手であったのに、コロナで大会はつぶれ、試合もなくなり、あげくの果てに校内でも感染者が出たため、部活動事態が中止になった。完全に八方塞がり。
コロナは他人事ではなく、間接的でもしっかり子供たちの心に傷を付けていた。
このときばかりは必死に学校とカウンセリングと(道の駅と)本人たちの架け橋になり、学校に頭を下げ下げ母は走り回った。
選手として二人ともそれなりにできるが、もちろんプロには程遠く。
しかし次女は全国大会常連の強豪校のスタメンを、7年間努力だけで死守していた。
朝3時間、放課後3時間、休日12時間と欠かさず練習に励んでいる姿は本当に立派だった。
それに比べ、そもそもなんでもできるタイプの才能の塊で、ろくに努力をしない長男は後ろからどんどん抜かれて挫折した。
・・こんな二人からスポーツを取り上げたらバカしか残らず。
そのカスカスの抜け殻になってしまった二人を抱え奔走していたが、やがて二人とも憑き物が落ちたようにもとに戻り、ケロリと学校に行きだした。除霊に成功したのだ。
それからしばらくして再び緊急事態宣言が出たときは私がトラウマで、放っておいたら死んでしまうのでは?と、本気で心配したものだった。
とりあえず思春期の二人とどう関わるかを毎日考え、付かず離れず。
一番下の次男をダシに「~ごっこを開催します!」と、縁日や駄菓子屋さん。各コンビニ弁当やスイーツを買いあさり、コンビニごっこなどをして家族総出で遊んだ。
家中にパズルやカードゲーム。すごろくにジェンガなどのパーティーゲームを買いそろえ、一歩も外に出ずいかにみんなで楽しむかを今も模索している。
コロナ禍で「家族のきずなが深くなった」とりあえず我が家はそっち方面だった。
オッズではコロナ禍離婚が優勢だったのだが、ただただ今の幸せに感謝しかない。
まだ終わってないけど。
世の中にはプロにはなれない程度だが、ガチでスポーツをしている子供たちはたくさんいる。
その多くが純粋に必死に取り組んでいる子どもたちばかりで、その親たちも嫉妬ややっかみ。子ども基準の謎の上下関係に翻弄されながら、身を粉にしながら我が子を支えている。
こういう子どもたちへのダメージも本当に大きく、世代交代を迎えた今、ふんわり引退を促されメール一通で強制終了。
甲子園が無くなり、インハイが消え、心のよりどころを奪われ、なお後輩から色紙で「ありがとうございました。続けてね。」と言われる辛さ。
あなたならどう、声を掛けますか?
そりゃオリンピックよりも背負うものがなく、浅いかもしれない。
スポンサーはジジーとババ―だけだし。
しかし比にならないくらいの競技人口がひっそり耐えているのだよ。と、伝えたい。
・・オリンピック辞めちゃえよ。
結局話題はそこに通づる。