今週のお題「雛祭り」
私は一人っ子である。なのでお雛様も一飾り。嫁入りの時に持たされた。
お高い作家の作品だったので、長女が生まれたときに引き継いで飾っていた。
しかし次女が生まれたときはどうしよう?と、迷い、結論ケースに入ったオルゴール付きの今時お雛様を購入した。
顔も現代風に可愛らしかったので、長女が嫉妬していたのを覚えている。
正直、作家さんのお雛様はとても下膨れで、目も細く、うっすら前歯がのぞく「平安顔」をした昔のお雛様だったからだ。
そんなお雛様を新旧併せて飾っていたので、二世帯住宅の様だった。
よく姉妹の場合、妹には「市松人形」というが、世の三姉妹や四姉妹に同じ数だけ市松人形がいるものなのか?それを飾る実家が恐ろしい。
お雛様は期間限定のイメージがあるが、市松人形は出しっぱなしのイメージがあるからなお更だ。
我が家は長男が生まれ、鯉のぼりを購入。
うかれて兜も買ってしまったので、次男には何もない。
さすがに男児の数だけ鯉のぼりとなると、3~6匹の鯉がベランダでなびくことになり、ちょっとした漁港だ。
兜も二飾り並べてあると、武将を仕留めた数のようで嫌だ。
そもそも男子は女子程イベントに関心がなく。
兜で喜ぶのなんて、よくて幼稚園くらいまで。
小学生でうっかりケースの天井を割り、中学生になると
「子どもの日だからお小遣いちょうだい」と、子どもらしからぬことをぬかしてきやがる。
我が家の女子も2人家を出たがお雛は持参せず、結局供養に行かねばならない。
何だか二世帯の供養とか、墓じまいみたいで嫌だ。
「お雛様を早くしまわないと、婚期が遅れる!」という迷信を20年間信じ、日付が変わると同時に片付け続けていた結果、長女は大学卒業と共に嫁いでしまった。
はやい・・早すぎる。そうではないのだ・・。
私の母は5人姉妹である。
母の実家はお雛様が一飾りと、市松人形が四体あったのだろうか。
そもそも私が一人っ子なので、お雛様が用意されない姉妹の気持ちが分からない・・。
ちなみに鯉のぼりも兜もなかったが、「男の子がいる家が持てるもの」と、教わっていたのでそれで納得。
ただし、ちまきや菖蒲湯などはやっていた。
想像だが、姉のお雛様が一飾りあったとして、私が市松人形一体だったら、「そういうことか・・」と、個体数とお値段に対する嫉妬で根に持ちそうだ。
そのお雛様が段のあるものだとしたら・・姉妹格差のようだ。
そもそも誰々の・・と、区切るから愛情の差の様に感じてしまうのだろうか。
そうすると家庭数でお雛様一飾り、と区切っている場合が多いのだろうか。
とすると、女の子しかいないご家庭での子どもの日は、鯉のぼりとか兜とかどう説明しているのだろう。
そこも我が家みたいに「うちには男の子がいないから無いのよ」ってことになるのだろうか。
それとも家庭数で考えるご家庭は、男女の区切りではなく、行事の一環としての考えであって、姉妹でも兜や鯉のぼり(正式なもの)があるのだろうか??
こどもの日、端午の節句は=鯉のぼりor兜で男祭りに対して、ひな祭り、桃の節句は「お雛様」で一対なのだから、夫婦の祭りじゃダメなのか??なぜ女子寄り??
何が言いたいかというと、ひとり屁理屈合戦ではなく、こういうことは「ジェンダーレス」と繋がらないのか?って疑問。
これは男女という考え方が強くない?と。でも、これは文化だからOKと?
やっぱり線引きが分からない。
もし私が性的マイノリティだとして、この行事を学校で突き付けられたら、ちょっと空しくなる。
「中間の日」は無いんですか?って。もしくはその線引きへの疑問や、自分の枠組。
例えるなら、バレンタインデーとホワイトデーの次に生まれたブラックデーみたいな・・何か。何か救いが欲しいというか。
きっと、こうやって無意識に祝ったりしている文化で個人を傷つけていることもあるのかもしれない。
小さいときから違和感を持っている子もいるようだし。
私が子どもの頃には「母親参観」や「父親参観」なんて普通に使われていて、自分には両親がいたから、母の日の行事とか全然違和感なかった。
むしろ先生が「母親参観には、お母さんへお礼のお手紙を書きましょう。」と、授業でやって、実際参観日にはひとりひとり母親に渡すセレモニーがあったくらいだ。
そういう時に、先生にカーネーションを渡している子がいたり、なぜか祖父母への手紙の子がいて「あ、そうか・・」と、自主的に気が付いたものだ。
当時の方が今よりもシングルは少なかったのに。
現在は「授業参観」に統一されている。
こうやって配慮して行けばきっと解決するのかもしれない。
でも、解決したことによって「何か」も失われやしないだろうか。
その時、小さいながら個々で配慮したり、察した感とか気持ちとか、優しさ?とか。
それは同情とかではなくて、目に見えなくて言葉で言い表せない感受性というか「何か」なのだが、人間としても悪くない学びだと思う。
例えば公園の危険遊具の様に「撤去」しまくって済むことなのか?
無くすということは経験自体が無くなる。安全かも知れないが、回避能力は付かない。
失敗しないということは、一見完璧だが学びが無い。ということは発展もない。
それこそ「守られすぎて」知らぬ間に傷つけることが増えてしまいやしないか。
共存とは排除ではないはずだ。
不自由な中での自由を、全人種を世界基準の尺度で解決することは不可能である。
「~蔑視」「~ハラ」とかすぐ噛みつかずに「差別化」の意味が歪み始めたことに気付いた方が良いと思う。
そうでないと、この封建的だった日本人の文化まで否定することになってしまう。
男尊女卑を撤廃するということは、女尊男卑ではないはずだ。
うちはうち、よそはよそ。
情報が錯綜する中で入れ知恵の様に、島国が大陸の考えに気付いた瞬間グローバルを盾にするのではなく、温故知新の意識を学んでから議論し合ったらどうだろうか。
でないと「ひな祭り」の表記も近い将来、「いい夫婦の日」と、まとまるんじゃないか。
と、「3月3日は雛祭り」というテーマで無理くりブログを書こうとしたら、こうなるのだった。