ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

どうしてもキレます。

どうも目標もなくダラダラとブログを書こうとすると、愚痴になりがちだ。

 

ただどうしても嫌なことがあるから、みんなはどうなんだろう?と、思う。

 

其の一「話題を被せてくる人間」が嫌い。

 

例えばこの間、某所でディズニーグッズを見ていた時だ。

正直、そんなに興味はない。

 

でも、かわいいなーって本心で思ったから、買う気はないけどいい気分で見ていた。

 

すると、後ろを通りかかった30代くらいの夫婦の婦が、

「こういうのってさー私全然興味ないんだよねーどこにでもあるしー」と、夫に吐き捨てて去っていった。

 

・・キレていいですか?

 

もちろん婦は私に攻撃したわけではない。

しかし、確実にこれをしみじみと見ている私は映っていて、後ろでなおかつ聞こえる音声で発した。

 

・・これは私への攻撃か・・!?

 

と、いう場面に多くぶちあたる。

 

きっといつも私が単独行動で、周りの話や行動を観察しやすい環境にあるため、いちいち「その電波」に気付くのだろう。

 

ありがちなのは、流行りの服でランチをしていた時、近くのテーブルが私の服を見て話題を持ちかける場面。

 

自分が話題に入っているなーって、感じることは誰しもあると思う。

 

「最近ああいうのはやっているよねー」とか。

「服でさー赤無理。」とか。

 

この一言で私は傷つく・・「ああいうの・・」私=ああいうの。

赤無理=私無理。

 

そんな感じで私は生きづらい・・。

 

でも自分がだれかと会話をする時、手あたり次第話題を探してしまうことがある。

 

つり革広告や、新聞の記事。景色や天気。

そしてそこらにいる人。

 

その一端を切り取って話題とし、場繋ぎしてしまう。

 

そう、無意識だ。

 

この無意識で傷ついている人間がいる現実に。皆さん意識して欲しい。

 

とくにおひとり様が多い今。

頼むから手あたり次第話題にしないで、せめてその人にワイヤレスイヤホンがあるか、無いか・・確認してから聞こえないところで話題に出そう。

 

ばばぁだってディズニー可愛いって思うんだよ・・。

 

そして其の二。

何かに没頭しているときに話しかけたり、部屋に入ってくるやつ。(主に旦那)

 

例えばこのブログは家族に伝えていない。

完全に匿名でぶちまけてやろうという野心から、誰にも言わずこっそり書いている。

 

すると、旦那がことあるごとに部屋に入ってくる。

 

コンコン「○○どこ?」からはじまり、コンコン「ないよ。」コンコン「あった。」コンコン「これどう?」コンコン「あとさー」

 

・・・クソストレスだ。消えてなくなれ。

 

気になるならなると言え。ならないなら空気読め。

 

10日あってブログを書く日が1日だとする。

残りの9日は一歩も入らないのに、なぜその一日とこの時間に被せるのかがもうムカつく。

 

わざとだろう。

 

もともと独りっ子なので、私のATフィールドはどんな水族館の水槽よりもぶ厚い。

 

私は何か集中したいときは「ひとり」が鉄則であり、それにより能力を発揮する。

外野がいたり、気が散ったりして糸が切れると面倒くさくなりすぐ辞める。

 

出来上がったものを完成体として見せたいのであって、陰の努力や工程など絶対知られたくないタイプなのだ。

 

同じタイプの方はたくさんいそうだが・・完璧主義なのだろう。

 

其の三、意味不明な同調心理。

「トイレ行ってくる!」「私も」「私も!」から始まるアレ。

 

今でいえば、ミスや失敗に対しての外野からの集中砲火。・・を、表現の自由で括る輩。

 

嫌いだ――――――!!!

 

もう、盆踊りもパラパラも嫌いだ!

個性個性・・言いながら、やっていることが矛盾している日本人が嫌いだ――!

 

っていう不満。

 

知らないうちに自分たちも誰かを傷つけ、自粛警察のような歪んだ価値観を押し付けていないか気付いてほしい。

 

・・ペットが苦手なブログを書いておいて、なんだかすまねぇが。

 

自分がメールをしていて思うが、文章って書き手と受け手でニュアンスが全然違う。

 

どんな文学賞を取った文才でも、それを読み取る相手の器によって感じ方は様々である。

これは書籍だから許されるようなものの、SNSに感情だけで書かれた文章にいちいち反応していたら本当に心が持たない。

 

「そういうつもりじゃないのに!」って。

 

自分も例に漏れず「アンガーマネジメント」とか取得してみたけど、そこでも学んだ「~べき」を見直すことは大切だと思う。

 

例えば私も「信号は青でわたるべき!」という当たり前を突き付けがちだった。

 

もちろん間違ってはいない。

 

でも、世界中では赤なのに車が来ないとき、止まっている人種は日本人ばかりだし。

救急車は平気で渡るし。

大阪は赤は止まれ、青はわたれ、黄色は突っ込めだし。(違うか)

 

様々な考え方があるわけだ。

 

この判別って結局個人でしかない。

 

もちろん一般常識で「赤は止まれ」は、必要だ。

でも、ケースバイケースというか。緊急時などは柔軟に考える時もある。

 

間違え、といえば間違えだ。

いい?と聞かれればダメだ。

 

ただ「~べき」と、自分にくぎを刺してしまうだけで全てに蓋をしてしまう。

これを誰かに強要し、無理に理解させようとすることは怒りに繋がる。

 

例えば今あるジェンダーレス問題でもそうだ。

男がいて女がいるべき・・?ではないことに気付き始めて、変わろうとしている。

 

でも、理解すべき?

・・というのも違う。

 

確かに生物学的な理由があり、理屈は知ってほしいが、理解は人それぞれでは。

 

なんでも「正しい」という世の中にはならない。

国や年齢によって考え方の尺度が違うからだ。

 

でもその全体をわかろうとすれば、きっとチョコチョコ論争すること自体がナンセンスなのかなって、少し楽になる。

 

だから私みたいにこれらの行為にいちいちピリピリしてしまうと、結果ひとりがいい・・。

と、なってしまうのだ。

 

 

理屈は分かるんだけどね。

 

理解はできない。