愚痴とか嫌な事とか、今の時代は共感してほしいからかSNSで垂れ流す。
完全に自分視点で、さも「私に非は無く(または反省しているのに)相手がおかしい」を多方面から自己分析し、結論自分の正当性で幕を閉める。
で、共感した人のみで会話を繰り返し、反論は無視。
・・というか、YESマンしか囲っていないから、そもそも反論もない。
同調心理の塊のような繋がりしかない。
で、私自身も納得いかないと書いてしまっている。
これってなんか解決策になるんだろうか??と、自分で不思議に思った。
だって、嫌なことを忘れかけていてもブログを読み返したら鮮明に状況が残されている。
女性は過去のことでも、思い返して今起きたかのようにキレることができる。
解消しているようでストレスを増徴させていて、実際「いいね」が集まったとしても事実は何も解決していない。
では、なぜ意味のないこと(むしろしなくて良いこと)に労力を削ってしまうのだろう?
納得いかないことに共感してもらって、何か変わるのか。
「誰にでもあるよ」とか「わかるー」って凄く無責任だ。
本質を解決する言葉ではないから。
では、どうしたら解決するのか?
当事者同士の話し合い。
・・・これに尽きる。重い。
とすると、問題提起したほうも実際のところ悩んでいるわけでもなく、「ネタ」として自分の倫理観やモラルをアピールしたいことが本音の「キラキラSNS世代(仮)」かもしれない。
こうやって隠し玉を乱発する今の時代、真相ってどこにあるのだろう。
話しは飛躍するが、私は社寺が大好きだ。
もちろん宗教的な意味合いではなく、荘厳な空気感が好きなだけ。
でも10年位前に御朱印を集めていた時は写経を収めたり、意味合いを持って集めていた。
でもあれから10数年。
もはやスタンプラリーと化した。
そして賽銭も電子マネーになり、ついに「マイル」ならぬ「マイリ(参り)」というポイントまで付くようになった神社もある。
本質はいずこへ・・。
別に熱狂信者じゃないから、運営のためには苦肉の策か。
とも思うが、ご当地キャラならずご当社寺萌えキャラとか、アニメなどの聖地巡礼とか、顔がいいばかりのキャラクターののぼりとか見かけると、ちょっともう見てらんない。
寺なんかその裏にガチ仏様が鎮座しているのだ。
いったい何に対して手を合わせ、お守り(グッズ)を購入していくのだろう・・。
次女曰く、今の若者にとって社寺はファッションっであり、赴いた史実で倫理観をアピールする手段だったり、インスタ映えのスポットでしかないそうだ。
というか、それ以外で何の意味がある??くらいな考え。
つまり限りのない「自分主義」ばかり先立って、物事の本質より見た目。
経験値より写真。という薄っぺらくてだだっ広い世界観で生きているのだ。
これらの新人類に合わせると、ブレ始める気持ちは理解できなくもない。
つまりは変化なくして発展もないからだ。
この先日本はアニメと漫画に支配され続けるんだろうな。と、先見の明は悲鳴を上げている。
そういう世界になりつつある今、小さなことでぐちぐち言うのもナンセンスだ。
中身より見た目(数字)で自己評価が下されるなら、下手な小細工辞めて小ざっぱりした容姿で黙っていたほうが利口なのかも。
他人とのコミュニケーションが増々退化しそうで、この先老いるのが怖い。
私の凝り固まった「昭和感」と同調できる人ってどんどん減っていくから、自分が新人類に合わせるしかないわけだ。
逆にちょっとイラっとしたくらいで愚痴を書き込んだら、「古い!」と、袋叩きにあう日もそう遠くはないのかも。