今年の夏より妖怪にハマった次男。
水木しげるの妖怪絵本や百鬼夜行、妖怪図鑑などを経てたどり着いたのが「妖怪の倒し方」
妖怪の本を読みすぎて、もはや彼の中ではリアルなのだ。
まず覚えたのが大好きなべとべとさんのあしらい方。
憑いてきたら「べとべとさん先におこし」と、道を譲ってやる。
暗くて怖がっていたら、明かりを貸してあげる。すると翌日には家の前に返してくれている。
という、一見ファンタジー。
次に覚えたのが塗り壁。
「足元を払う」
そして河童
「手を抜く」
…!?
実は河童の倒し方は「手を抜く」そうなのだ。
私世代だと「皿を乾かす」とか「皿を割る」と、頭に目が行きがちだが、河童の腕って引っ張れば抜けるらしい。(出どころ不明)
他にも「無視をする」事が有効な妖怪も多々いる。
承認欲求が妖怪にもあるのか不明だが、無視されると傷ついたり元気がなくなっちゃうそうだ。
とりあえず妖怪とは幽霊のように無意識の怨念とは違い、自我がある生き物のようだ。
で、数ある妖怪の生息地や出現エピソードを知ると、ある疑問が発生する。
…コレってワンチャン「近所に居がちな変人さんでは」疑惑。
昔の方って情報の伝達が筆記か口頭だ。
で、「人に何かを伝える」という作業を辿ると、まず目で見る。
その視覚の情報を頭で認知し、感じ取る。
そして語源化し、口から言葉として発して相手に伝える。
相手はそれを耳で聞き、頭で理解する。
もちろんこの相手は脳も違い、環境も違い、捉え方も何もかもが自分とは違う。
この一方的な理解でどこまで伝わったかは、伝えた相手にはわかりづらい。
つまり、真の意図が伝達されたかは怪しい中で大体会話は進むものだ。
夫婦とか親子なんか雰囲気やニュアンス、下手すりゃアイコンタクトもできるほど親しいだけに、もっと聞いてない気もする。
「伝言ゲーム」を想像すればわかりやすい。
タイムリーに4~5人流しても、最初と最後が噛み合わない。
話を戻すが、こんな状態で誰かが突拍子もない人を見て、噂し始めたら…。
真実に尾ひれや背びれや胸びれまで付いて、「妖怪化」されるのでは…?と感じやしないだろうか。
川で毎日小豆を洗うお隣さん。
豆腐売りの息子さん。
毎日風呂を洗うご近所さんを揶揄したのかもしれない…。
なんか薄っすら妖怪の名前が出てこやしないか。
思い返すと私も若かりし頃…歩き回る浮浪者に「赤ジャン、青ジャン、黄ジャン」と、戦隊ものの様なあだ名を付けていた…。
過去に語った「ボーボーおじさん」に関しては、「都市伝説」本に掲載されるレベルのエピソードだ。
これが50年後、私の死後にまで語り続ければ、生き証人はいないわけだからやりたい放題の逸話となる。
100年残れば無事に妖怪になってるだろう。
そういう視点で「妖怪辞典」を熟読していると、「こうなっちゃいけない…」の戒めでしかない。
昔から語り継がれるものには、何かしらメッセージがあるなと一方的に感じた。
今も昔も「迷惑行為」のニュアンスがさほど変わらないということは、人生頭止め。
全ての人類が大体の平均生存率で生きたとして、大体同じことを繰り返しているだけなんだな。
って感じる。
だって学生のときのエピソードあるある。
恋愛あるある。
主婦の子育てあるある。
育ってきた過程での「あるある」って、例えば平安時代の文献を見たって同じようなもんだ。
きっとこの先、文明が発展して車が過去のものになったとしたら。
「妖怪あおり運転」とか生まれるんだろう。