ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

過去と未来の比較

過去に「ゆとり教育」が実行され、結局見直された。

この際、どんな影響を懸念しての方向性の転換だったのだろう。

 

良し。として始めたものが結果的に良くなかった。

 

授業数減による学業の遅れだろうか。

思考の形成で何らかの影響が出たのだろうか。

 

でも、「ゆとり世代だからなー」と揶揄される以上、確かにイメージは悪い。

 

やっておいて「やっぱやめた」となり、「ゆとり世代だからなー」は無い気が。

 

 

「段階世代」だって「苦労人」イメージがあるし、各世代サブタイトルはある。

 

正直「ゆとり世代」は「ダラダラ、なあなあ」なイメージがある。

 

今の「Z世代」なんか、各世代一貫しての認識は「宇宙人」

 

この世代の面倒くささは本性が見えづらいとこにあり、どうしても腫れ物に触るような感覚は否めない。

 

SNSの発達で、何でもこっそり匿名で拡散してそうなイメージなのだ。

 

 

先日バラエティーで、昭和世代とのギャップを現在と比較する番組を視聴した。

 

昭和初期は戦後からの発展途上であり、法整備が整ってはいなかった。

 

そして平成令和は、先人の知恵で構築され、戒めから整えられた環境。

 

戦後の復興で試行錯誤の時代と、細部に拘れる余裕のある現代人と比較するのも失礼な話とか、誰か気づいているのだろうか。

 

しかしながら、昼休みに一斉に屋上でバレーボールをする社会人のVTRには笑ったが。

 

 

ただ、試行錯誤のなかでの失敗作であれ、あの時代の人間性には必要だったものや、経験もきっとある。

何事も勉強。失敗から学ぶ。

 

例えば昔の教育論は、ちょっとアレで、竹刀を持った高圧的な先生や、廊下にたたされたり、給食を残さず食べさせられたり。

 

奇しくも忍耐力と理不尽さをしこたま学べる。

 

もちろん直情的と言うか、先生だって我慢が足りないよね。

と、突っ込める指導で、あんな経験無いに越したことはない。

 

ただ何がどう影響をするか、個人の捉え方次第なのだが、アレがあった時代の人間と無い人間とではやはり価値観や倫理観がかなり違う気がする。

 

私は運動部で培った、どうでもいい理不尽さは教訓になっている。

少なくとも「本性」は学べるからだ。

 

で、それらが排除され快適さを追及した中の人間性を持つ人が、理不尽さや忍耐と直面したときどう乗り越えるんだろう?

 

とりあえずYahoo!掲示板とかでスレッド立てるんだろうか。

 

全部ディップさん任せなのか。

 

辞めさせ屋が職業として成立して、バイトの交渉すら自分で言えなくて。

 

こういう「楽」が快適を追及した成の果てであれば、個人の成長はどう育むのだろう。

 

人類はリアルな人付き合いゼロの未来を目指しているのか。

 

 

昔、幼稚園バッグ制作代行が横行し始めたころからうっすら感じていたが、何にしろ結果重視しすぎではないか。

 

辞める過程があり、人に迷惑をかけたり、円満なら応援されたり人の気持ちや感情に触れて学べる。

 

交渉することで、戦略や相手との認識を深めたり、一歩踏み込める。

 

これらを簡易化して、お金で済ませていたら、失敗や叱責ばかりにビビる薄っぺらいコミュ障が量産されるだけでは。

 

 

幼稚園バッグだって、下手でいい。

「誰のために作るのか」を考えたら答えは出てないか?

 

出来映えじゃなくて、親が作っている姿を見せることが重要なのでは。

 

子ども達だって覚えたての字や絵で、感謝を伝えたり想いを描く。

 

それこそ意味不明な文章でよくわかんない絵かもしれない。

 

でも、一生懸命に試行錯誤して完成させる過程に意味があり、親は子どもの成長を知る。

 

何より心がこもっているから、どんなものでも嬉しく、心に残る。

 

 

なのに大人は体裁ばかり気にする。

出来にこだわるのは大人だけだ。

 

何でもかんでも簡易化して「面倒事」から逃げるなと言いたい。

 

私は「苦労は買ってでもしろ」と思っている。

 

自分の人間性を培う上で、難局を越えたり、他人を知ろうとすることを怠けたくないからだ。

 

文字で読んで「他人事」としてインプットするより、体験して「自分事」として戒めたい。

 

まだまだ私はチキン野郎で、人を引き連れるわりには失敗にビクビクしている。

 

正直ストレスだけど、「何かを変えたいなら犠牲は付きもの」だ。

失敗を怖れたら、どう一歩踏み出せるのだろう。

 

やった一日、やらない一日。

 

人生で取り返しのつかない生きた時間のなかで、やったならきっと、やらなかった一日より一歩前に進んだはずだ。

 

 

昭和の時代の中での教訓は、バカにしたり比較して笑う産物ではなく、今ある私たちを豊かにするための石居である。

 

「おかしいなぁ、信じられない!」

 

当然だ。

その時代は「当たり前」が不安定だから、間違えたり失敗したり、試行錯誤して時代を良く変化させてきた。

 

 

だから過去を笑わないで、今に感謝をしてほしい。

 

 

どうせあと2~30年したら、あなた達も笑われるんだからさ。