自分が「実はあなたは障害者でした」って今頃判明して、最初に気になったのが「障害者」の文字。
「障って、害のある者。」
オイコラ!
漢字って意味合いがあり作られる。
これは健常者からの忖度なしの烙印なのだと受け止める。
実際、私宅監置は合法であった。
まあ、今はどこでも口には出せないが「厄介者」は、素直な意見。
自分が当事者となってみて、ようやく「見える」とはこういう感覚なのかな。を、痛感した。
かと言って、今の「人類みな兄弟」風潮も痒い。
例えばゲイが嫌いで同性婚に異論があっていいと思う派。
だって同性愛者は男女の愛が不快なわけだ。で、いいじゃんと。
そこを取り持とうとするからギクシャクする。
分かんねぇこと理解するなと。
もちろん差別はダメしかないし、マイノリティへの迫害も罪だ。
ただ、表に出さなきゃいろんな趣味嗜好は勝手だと思う。
分かち合うな。分かんねぇことを。
で、当事者になってきっと真実が見える。
そんな「何か」をちょっと感じた。
自分の苦手分野が病気のせいだった。
…だから?
なのだ。治すって何?
今までの私を全否定するような。
それなりに努力して、たくさん挫折して泣いて叫んでた。
心をズタズタにされたし、やり返してやった。
だから痛みも分かるし、離人症だって「究極の空気読み」みたいにプラスに変えた。
病気と判明して、何か合点を得た部分もあるがきっと私は変わらない。
ASDがマジョリティから見た「障害」なのであれば、そうなのだろう。
思えば私は左目が生まれつき不自由だ。
だから「両目でモノを見る」事ができない。
45年間これで、今左目が開眼したら。
きっと凄く動揺するし、慣れなくて苦労すると思う。
まあ、だから今。そんな感じなんだよな。
SNSで他人を知りすぎて嫌いになっちゃう感覚とか。
そこまで知らない方が仲良しだったな。とか。
自分が「ヨシ」としていた境界線を超えてしまった。
利用するものは利用して、あざとくなるか…
いや、優先シートにすら座るのに罪悪感を抱えるメンタルだから無理か。