
大分ご無沙汰してしまったが、忙しかっただけである…。
ようやく落ち着いてきたので、友人とエッグスシンスへ行ってきた。
とはいえ、先月のお写真↑
さて、この間テレビで「おおかみこどもの雨と雪」が放送していたので、次男と見ていた。
細田守監督のアニメなのだが、これは何度見ても辛くて辛くて涙がこぼれっぱなしになってしまう…。
どこに泣き所があるかというと、全部だ。
私が「発達障害者目線」であるが故の涙。
あの「狼とも人間とも言えない生命体」って、自分にすごく当てはまる。
たぶん、ハーフの人とかも共感する領域な気もする。
どっちつかずの姉弟が、一生懸命「人間に合わせよう」とする姿や、雨のように「本能に委ねる」決断をする考え。
「それな」が止まらない。
私はどちらかと言うと雪の方で、他人とズレていることに気づくまでたくさんの失敗を繰り返した。
そこから「自分を抑え込んで馴染む」女子特有の保身に突入するわけだが、すぐに息苦しくなり離脱。
結果「友達ゼロ人計画」まで落ち込み、5年ほどは家族としか話さないし食事もしなかった。
紆余曲折を経て今、お友達を数人作れたが、継続する意思は自分だけでは決められないものなので、どう繋げていくものだろう?と、自問自答の毎日ではある。
もう人生半世紀に近づくと、周りも大人なので「何だか何とかなってしまう」わけだ。
そうすると「本音」がより、よみづらくなり、どうしていいかわからなくなる→放置期間に入る(連絡待ち)結局終わる。
結論、必要だったのは私だけかという一方通行感に落胆→友達ゼロ人計画発動。
…負の連鎖でしか無い。
私が雨のように「本能のままに生きる」を選んだとしたら、定住地もなく日本中を転々とした挙げ句、人里離れてはいるけど病院には幹線道路かバス通できて、パルシステムが配送可能レベルの片田舎で、ソーラーパネルとか雨水浄水器とか、自給自足に特化した四畳半くらいの(ちっさ)要塞を作って閉じこもる。
そして命尽きるまでNetflixを見続ける…。
発達障害という脆い心を守ろうとすると、人はこうなる。(マジか)
でも「それでも人」なんで、きっと寂しくなって一人でジタバタするのだろう。
鬼滅の刃もそうだけど、他人の死生観に触れると「何をもってヨシとするか」が個体によって絶対的に違うので、考えさせられてしまう。
雨が本能を選んだとしても、私だったら自然に身を任せるとか耐えられないし、雪に全振りしたところで「人間関係に疲弊」してしまって、心を潰すと思う。
なので、その中間地点に存在する二人の母の強メンタルぶりは見ていて引いた。
私は旦那(狼男)がゴミ収集車で回収された時点で、清掃会社に大量の嫌がらせメールを送る。
真実を公言できない上に、自分に何の力添えもないからである。
そうやって姑息な手段でしか対抗できないことに自暴自棄になって、舌噛んでで死ぬ。
とか、絶対的にお粗末な終末を迎えると自負する。
自分にとって「何が幸せなんだろう?」を考えると、他人が疎かになるし、他人に寄せると自分が疎かになる。
背負うものなんかきっと軽いほうがいいのだろうが、背負うもの無くして「何で生まれた」という堂々巡りになってしまう。
私が4人育てていて思ったことは、「負の経験こそ宝であった」ということ。
ASDである私は、反芻思考とカメラアイという特性を持つ。
なので嫌な思い出は「今あった出来事のように」一生忘れない。
でも、嫌な思い出があってこそ「方向性を変えるチャンス」であったし、俯瞰するといろんな物が見えてくる。
こういう「気づき」で人間性が問われるわけで、その経験が障害者だから人よりも多めかもしれないのだが、とりま「今の自分」につながっているわけだ。
今のところ、私は自分が好きである。
なにかできない理由や、失敗した理由がだいたい分かるので、うまく渡り歩けるようになってきたからだ。
そういった「人生の縮図」みたいなものを、あのアニメを見て感じて、一人でぼろぼろ泣いていた。
…次男はドン引きだった。










