女性はとくに「同調」が多めな生き物だ。
元来「コミュニティーを守る」担当であったため、「輪を重んじる」習性は国を超えて同じだと思っている。
そんな「女性特有の習性」が、ASDである私にとっては非常にツラたん。
子供時代、女子グループに馴染めず「男子と遊んだほうがマシ」と遊び続けて、思春期頃「男好き」と烙印を押されがちな立ち位置ASD。
男が好きなのではない…「女が嫌い」なのだ。
正確には「女子特有の習性が理解不能なので嫌い」。
例に漏れず、私も「同調」とかに吐き気がするタイプ。
例えば初対面で「ライン交換しません〜」と、手当り次第話しかけるやつ&それに慌てて入ろうとしてくるやつ、全員嫌いである。
その意図が「とりあえずあぶれたくない」という、どうでもいいものであるからだ。
烏合の衆に加盟するくらいなら、あぶれたって良いじゃないか。
「距離を詰めるなら相手を知り、順序立ててから…」なんていう、石橋を叩いて渡るようなマイルールがあるので、最近の人の「とりあえずビール」並の「とりあえずライン」みたいなノリにはついていけない。
なので、長年ボッチだったのだが。(結果が伴わない)
グループも嫌いだし、実のない話や雑談も苦手。
何でも「完結」させ無いと気がすまない。
…というのをだいぶ曲げて、今友人関係を保っている。
自分に無理しているようだけど、人間関係って「妥協」でしかないという落とし所があるのでなんとか払拭してはいる。
ただ、会話の端々で「…ん?」と思うことも多い。
今一番不快なのが「わかる〜」「私もだよ」この言葉。
女子が「囲み」に入ったときに「適当に」よく吐く言葉だ。
私は会話において「整合性を求める」節は合っても「同調」を求めない。
何でも字義通りに受け止める特性を自覚しているので、「…まてよ、きっと適当な”相槌”だよな」と考える。
考えてはいても引っかかる。「んなわけ無い」と。
振っておきながら何だけど「私のことをお前ごときがわかるものか」これが常に念頭にある。
…もとより友人関係破綻している。
例えばASDの話題になったとき「こういう特性はある」と言うと「わかる〜」「私もだよ」と、同調される。
私は定型発達障害者で、あなたは定型発達者。
絶対に違う。
この「絶対的に違う」とわかっていても、適当な相槌で発するので(たぶん)あんまり深く考えていないと思う。
でも、私はASD。そうは受け取らない。流せない。
私の言葉が足りないのかもしれないのだが、私と同じ特性であれば「お前も発達障害者だ。」と、返したくなる。
これも相手が対等に物事を捉えてくれた結果なのだろうか。
いや、「女子特有の同調習性」に沿って「反射的に答えている」ふうにしか感じない。
相手だってちょっと考えればわかるはずだ。絶対的な「違い」があることを。
この意図がよく読めずにいちいち不快になってしまう。
こうやって言葉尻を捕らえてしまうのもよくない特性なのだが、他人の真意を読み取るのは難しい。
そもそも軽いコミュニケーションに置いても「整合性」や「建設的であるか否か」を問うてしまうクセがある。
常に「効率重視」なため「意味のないことが嫌い」なのだ。
起承転結で言えば「起と結だけでいい」というのが正直なところ。
これを「コミュニケーションなのだから相手に足踏みを合わせることも必要」と、余計な部分を受け入れ「承と転も楽しむ」様にしているのだが、たまーに「激しい離人感」に襲われる。
そもそもが向いてない。
なので「人間関係って難しい…」と、堕ちてしまう。
堕ちたら疲れる→疲れることを避けたい→一人だと楽という答えは出ている→ボッチ。
どんなきっかけであれ、答えが「ボッチ」に落ち着いてしまうのだが。