自身を知ろうと様々な本を読んでいる。
ASDやADHDは「子育て」の部類での書籍ばかりで、図鑑のように大きい本が多く持ち歩けないので文庫本サイズは探すのが難しい。
今2冊読み終わって、3冊目の中盤。
どれもインターネットで調べたのと同じようなことばかりで、3冊目にして毎回デジャヴの様に他の本の引用が浮かんでしまう。
…作家、全部違うはずだが。
結局「そこまで」しか解明できていないから、同じ論争がグルグル回っているだけなのだろう。
皆で同じこと言うなら一冊にまとめてほしい…。
自閉スペクトラム、アスペルガー症候群、広汎性発達障害が丸まってASDになったというけれど、広汎性発達障害にはLD(学習障害)やADHD(多動)の症状も含まれるため、結局一緒くたな気がする。
当然だがどれも当事者目線ではなく、「客観視」で書かれているため「あーそう思われてるんだー」という学びにはなる。
でも結局「発達障害の症状は人それぞれです」とかまとめられて「参考にしてください」みたいな締めでは「後はご想像におまかせします」と、現場に問題を丸投げされているみたいだ。
私はお医者さんじゃないのでよくわからないが、「当事者」が理解できない本出してどうする。とも思う。
私としては「解決(完治)は望んでいない」なぜなら「治らないから障害」という字義通り。自身の状態を認めているから。
「いち個性」として発達障害者が存在するのであれば「定型発達だって個性」と捉えている。
ここの溝を取り持つとして、なんで「発達障害者」側ばかりを理解せねばいかんのだ。と、思ってしまう。
逆も然りなのでは。
発達障害者にも色々ある。定型発達にも色々ある。
主に定型発達者の方で私達を真面目に理解しようとするのは、家族と医者だけだ。
もう少し言うと、「熱心な家族と医者」だけだ。
極論だが家族はコミュニティーとして、医者は仕事として向かい合う。
つまり一般的には「必要に駆られないと向かい合わない」問題なわけだ。
必要にかられて「理解したい」という気持ちがあるのはありがたいが、それはとても少数派だ。
そうなると「私もあなた達を理解したい」。
つまり、こちらの問題点やエピソードに沿って「同調」ないし「解決策」を語ることは完全に一方的であり、下手をすれば「善意の押し売り」みたいに捉えてしまう。
そもそも「発達障害者だから仕方ないのです」みたいないさめ方は無責任だ。
例えば発達障害者の方が、定型発達者を客観視した本を出したとする。
一般的にマジョリティである定型発達者は、この本をどれだけ信憑性を持って捉えられるんだろうか。
大抵が「知った風なことを」と捉えるのではないだろうか。
「捉え方が違う」からだ。
発達障害者目線での「定型発達者の取説」とかいう本はないのだろうか。
「本音と建前」とか「同調圧力」とか大変そうだなって思うが。
例えば自己啓発本が「定型発達者の取説」に近い気がするが、所詮「定型発達者同士」の馴れ合いのため、私は同じ土俵にまず立てない。
でも「あとがき」などで作者以外の人が作品を振り返るような文章は、汲み取るのが難しかった。作者との馴れ初めとか「感想文」みたいな文章。
大抵は私と捉え方に相違があるので引っかかった。
どの書籍も「発達障害者を知る」という意味ではだいたい同じ記述なのでお腹いっぱい。
もしも「歩み寄り」であるなら、一方的に「こう対処しましょう」と言われるより「発達障害の方も我々(定型発達者)を理解してくれますか」の同時進行のほうがフェアでないかなと思う。
これは旦那と話していてそう気づいた。
どうも自身を分析して知るたびに「私はこういう傾向だから。」を相手に対して一方的に押し付けてしまう。
簡単に言うと「お前が合わせろ。」と、強調しすぎなのだ。
そもそも私は「後付のASD」なので、自分が分離するほど苦労して「定型発達者」に合わせてきたが、通常配慮するのは「定型発達者」となる。
「障害」と言われる以上配慮も必要だが、あまりにも「私は障害者だから」と誇示ばかりしていると相手の意志や意向を「我慢」だけで封じ込めてしまう。
そんな「違和感」を書籍を読むたびに覚える。
例えば二部作でも何でも良いので、一度なにかひとつのエピソードの際して「定型発達者」の見解と「発達障害者」の見解を並べて文章化してほしい。
「鮭か熊か」みたいな目線。
「鮭の一生」に焦点を当てると、産卵のため川を登る時に「襲ってくる熊」が脅威だから「逃げて!」となる。
しかし「熊の一生」に焦点を当てると、冬を越すために必要な鮭を食べないと死んでしまう「捕まえて!」となる。
同じ映像を見ていても、どれだけ「見ている世界に相違があるか」一目瞭然であれば、個々の細かい「症状」に焦点を当ててチクチク議論するより分かりやすいと思う。
何か問題事があると、その一部分を解決したくなりがちだけど、もっと根底の部分に原因があるのが「発達障害」だとASDの私は思うからだ。