ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

3.11

あの時私は震災地近郊の他県にいた。

そこでも震度5を記録する揺れで、私は某飲食店で働いていた。

 

離婚して、ひとりで3人育てていた頃。

今の旦那とも知り合ってはいたけど、暮らしは別々。

 

ひとりで長男を保育園に預け、上の二人を小学校に送り出し、昼夜4つのバイトを掛け持ちするシングルマザーだった。

 

地震が起きたとき、厨房で調理をしていた。

ボイラーのお湯が揺れでこぼれはじめ「これはダメなヤツだ」と思い、ふと同僚を見ると、上からぶら下げているシャンパングラスを必死に抑えていた。

 

ホールでは店長をはじめ、他の従業員がお客様に「座席の下に入り、頭を守ってください!」と、各席に叫んでいた。

 

私はガスの元栓をしめて、グラスを守っている同僚に「そんなのいい!」と、叫んだのを記憶している。

 

外から悲鳴やざわめきが聞こえ始め、おじさんが「落ち着け―!!」と、叫んでいた。

 

ほどなくして揺れが収まり、お客さんを店外に誘導。

その先は館内の警備員が誘導していたので、各飲食店の従業員は店舗の確認へと店に戻った。

 

私はお客さんを誘導し終わり、仕事としての役目がプチッと切れたとたん、子ども達の顔が浮かび足がガクガクした。

 

「私しか守れないんだ。」

 

私がいなくなったら、あの子たちを迎えに行く人は誰もいない。

私は店長と他の従業員にひたすら頭を下げ、制服のままお店を飛び出した。

 

他の従業員にもお子さんがいる方もいたのにだ。

もう、何と言われようとかまわない。

 

いざという時の私は、そういう人間だった。

 

保育園は仕事場から近く、保護者として一番に迎えに駆け付けたのは私だった。

行く際も度々余震があり、自転車に乗れず路肩に投げ捨てた。

 

保育園に付くと、2~30人の子ども達が園庭の真ん中でしゃがんでいた。

そしてその上から保育士さん達が、0~1歳くらいのお子さんを銘々1人から2人も抱えて、覆いかぶさるように園児を囲んで守っていた。

 

男性職員は園内中を走り回って、子どもは全部出たか被害はないか叫んでいた。

 

私は圧倒され何もできず、エントランスでただ茫然と立っていた。

 

それに気づいた先生が「○○君のお母さんですね」と、話しかけてきてくれた。

そして先生が「○○君!お母さんが来てくれたよ!」と呼んだ瞬間、園庭に集まっていた子ども達の視線が私に向いた。

 

「気を付けて。」と言われ、私は長男を抱きかかえてエントランスを後にしようと・・した。

その時、小さな声で「・・私のお母さんは・・??」と、後ろから子どもの声が聞こえて胸が痛くなった。

 

あの言葉はいまもずっと心に残っている。

 

ここは震災地からも離れていたので保護者の方の被害はなかったが、遠くまで出勤している方はたくさんいたため、帰宅困難者の方は大勢いた。

 

私はお店の制服のまま、長男を抱え長女と次女の小学校へ走った。

 

まだ余震もあり、近所のじじいが自転車を引きずりながら、周りに注意喚起を叫び巡回していた。

完全にボランティアでやっている感じの方。

 

何分か置きに電柱が大きく揺れ、車もハザードのまま路肩に止まっていたため、みんな建物の周りを避けて車道の真ん中を走っていた。

 

今、冷静に考えるとどうして地震が完全に収まるまで待てなかったか、私が引き取るより園や学校にいたほうがよっぽど安全だよね。と、つくづく思う。

 

でも、当時はとにかく無我夢中だった。

 

小学校に着くと、ダラダラと校庭に無駄話をしながら出て来る子ども達に驚いた。

先生の誘導は?避難訓練したことあるよね??大人はどこ??

と、言う感じ。

 

各々銘々に各所の出入り口からでてきては、迎えに来ていた保護者と勝手に帰っていた。

 

先生たちは校舎に残る子ども達を集めて外に出すのに精いっぱいで、外に出た子供たちは勝手に判断して友達と帰る子もいた。

 

保護者証とか、身分確認後に名簿をチェックしての引き渡しとか・・全部無し。

もはや自己判断。

 

マジか・・愕然とした。

 

ほどなくして我が子も校舎から、友達と無駄話をしながら出てきた。

校庭で座っていた次女も見つけ、帰っても良いものか3人抱えて呆然としていた。

 

周りにいた親たちが「携帯が繋がらないの!」と、騒いでいた。

これは花火大会で実証済み。DOCOMOユーザーだろう・・。

 

私と今の旦那はまさかのwillcomだったので、電話がかかってきたとき「繋がるの!?」と、驚かれた。

 

でも一番驚いたのが、同じ市内の別の小学校に異動した、長女の前の担任の先生が、突然「みんな無事か!?」と、現れた事だ。

 

元クラスの子たちは、この熱血先生のことがみんな好きだったのだが、喜ぶと・・思いきや、一斉に固まった。

 

この先生、異動先で担任に付いていたのだ。

 

つまり、自分のクラス(別の小学校の)そっちのけで、前のクラスを心配して元の小学校に駆けつけたのだ。

 

「・・今のクラスは・・??」

 

・・この後、どう処分されたかは知らんが。

 

誰もがそれほどテンパっていたと言えば良いのだろうか・・。

私も含め、今思い返すと正常な判断ではなかった。

 

せいぜい物が倒れた程度の被害でこの状態。

 

自分のメンタルの弱さ、他人と同調してしまう人。

訓練は訓練でしかなく、リアルでは個人行動に走りがちな現実。

いろんな教訓があった日だった。

 

私はこのまま3人を連れ、広い駐車場の車の中で一晩過ごした。

 

帰宅困難者の列で橋は埋め尽くされ、近所の自転車屋さんの自転車が全部売れていた。

 

翌日、私は今の旦那に「子ども達を一人で守り切れるか不安です。」と連絡し、一緒に住んでくださいと頼んだのだった。

 

自分のことを言えば、実はとても弱くて無力だったと気付かされた。

 

緊急時はこうするんだよ。

と、話し合いをしていたことは、まさにただの「話し合い」に過ぎず、リアルってこんなことなのだ・・と、恐ろしくなった。

 

そして、11日に毎年放送される震災の特番。

私はここで流れる津波の映像を見るだけで足がすくみ、涙が止まらなくなる。

 

私は津波を体験していない。

でも「その時」を体験し、とんでもない心的ストレスを背負っていたのだ・・と、改めて気付いた。

当時は無自覚だったのに。

 

本当に津波を目の当たりにし、家族を奪われた方々、故郷を失った方々の気持ちは計り知れず、テレビで流してもきっと体験したことの無い人には響かない。

 

だからコロナでも自粛をしない。

 

凄惨な映像も、映画や作り話の様に実感がなく自分の魂はそこにはない。

とんでもない事が起きていたのだ・・と、後からでしかわからない。

 

私はこの日が来るたびに、祈ることしかできない。

 

無力さを痛感し、自分の存在意義ってなんだろうと、毎年考えてしまう。

「大丈夫ですか」も言えず、「手を貸しましょうか」もおこがましい。

何を言っても角が立ちそうで、結局現実から目を背けて生きている。

 

保守的というか、薄情というか。

 

所詮自分、というか。

 

今日もどうしようもない気持ちが渦巻いていた。

 

私はこの後すぐに保育園を辞め、長男を幼稚園にいれた。

仕事も減らし、子どもを預けっぱなしだった生活を反省した。

 

暮らしはさらに苦しくなったけど、今の主人が資金援助をしてくれた。

 

長女と次女は公立の幼稚園で、様々な役員や面倒ごとは経験済み。

園に携わる時間も長く、親子ともに成長できた。

 

でも、保育園に預けっぱなしの長男とは、実際朝と夕方しかコミュニケーションがなく、離れている時間の方が長かった。

 

ある日、長男が箸だけ左利きだと気付いたとき、ショックで仕方なかった。

親なのに知らなかったのだ。

 

幼稚園に入り、行事の運営にも積極的に参加した。

早くに迎えに行けるので、友達と公園で日が暮れるまで毎日たくさん遊ばせた。

 

長男と向かい合い過ごせたことで、とても充実した幼稚園時代を経験できた。

この思い出だけは宝だと思う。

 

窮地を乗り越え、何か考え方や生活の仕様が様変わりした方もいると思う。

 

たぶん、あのことが無かったら私は変わらなかった。