ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

公立私立幼稚園保育園の経験からの・・

実は末っ子はインターナショナルスクールに通っている。

 

家族全員純日本人。

親の学力レベルは低い。

 

 

 

・・意味がない。

 

 

 

・・話題が終わってしまう。

 

そもそも入れる動機が不純だった。

 

待機児童で2年待っても順番が来ないので、いったん離婚するか知り合いの市議会員に頭下げるか、来春開園予定の園の考査をダメもとで受けるか。

 

1番目も2番目ももはやネタだが、子連れ営業はそれくらいしんどかった。

なによりDVDばかりになってしまう我が子がかわいそうでならなかった。

 

・・で、3番目が選ばれた。

 

用意したのはひとつ。

質疑応答の練習でも前知識でもない。

 

4万円のお受験スーツだ。

ダイエーで買った・・。

 

インターナショナルスクールの幼児園は珍しいので、案の定、考査の倍率も高く、次男も飽きちゃったので主人とあやしながらの面接になってしまい、4万円ドブに捨てたねぇ・・と、どうしようもない会話をしながら帰った。

 

まあ、動機がどうしようもねぇから仕方ないが。

 

でも受かっていた。

結論、2歳前の子どもがぐずるのは仕方ないとして、その時の親の対応力を観察していたそうだ。

危ねぇ・・よかった。常識的で。

 

よし、受かったからには男の子だから学力面で強い子にしよう!と、無理矢理シフトチェンジし、せっかくだから小学校も受験しちゃおう!と、子どもの未来に期待を寄せたりした。

 

でも、現実は考えさせられることばかり。

 

教育と保育を兼ね備えた「幼児園」では、通常幼稚園の9時~14時保育と通常保育園の9時~17時保育を合体させたような施設であり、9時~17時で保育時間が長い。

 

さらに時間割で仕切られ、子ども達は年少少(2~3才)から各種カリキュラムをこなす。

 

完全に下界と閉ざされ、連絡事項など全てが専用アプリサイトで更新されるだけで、担任と話すのにも事務を通さなければならない。

 

親の役員、係り一切なし。

送って迎えに行って終わり。

でも60%近くが通園バスなので、園に来ること自体が年数回・・なんて方もいる。

 

・・親同士もほとんど交流が無く、子どもの友達も写真で見るくらいだ。

 

バーチャルだ・・仮想現実のような園で、通わせていて全然楽しくない。

 

こんなところなので、お金持ちと中国人が非常に多い。

双子が一組もいなくて、一人っ子が90%以上。

 

インターナショナルスクールなのに、中国人以外の外国の方を見たことが無い。

先生は各国のネイティブティーチャーだけど、親が純日本人なので意思疎通ができない。

そして肝心の我が子も宇宙人。

 

 

・・伏魔殿のようで中で何が行われているか全くわからない・・。

 

 

何かあっても事務所を通して担任に伝えられ、事務所伝いに返答される。

親同士のつながりも浅いので、「way?」が「way??」のまま事が済んでしまう。

 

これが現状だった。

 

どうしたもんか。つまんない。一番楽しい時期なのに。

 

先生のゴシップや噂話も、ボスママへの悪口大会もない・・不倫もバレない・・。

それどころかボスが発生しない条件である。

 

程度の低い主婦向きではない。

うっかり噂話で盛り上がろうもんなら、本人ではなく弁護士が出て来るんじゃないか。

 

私は上の子ども達の時に、公立私立の幼稚園、公立私立の保育園を全部経験している。

かなり少数派ではなかろうかこの実体験で、今の園への疑問が増幅中なのだ。

 

 

今ならわかる。

イギリス王室とダイアナ妃の子育て概念の相違が・・。

 

 

一部のハイソは習い事も普通ではない。

イオンのカルチャー教室ではないのだ。音大まで行ってチェロとオペラを習うそうだ。

 

・・チェロより小さいのに・・。

 

バレエはリモートで、スタジオに改造した自宅で海外のプリンシパルに直接教わる。

 

残念だが仲良くなれそうにない・・。

こっちこないで。

 

と、言う方たちもいるが、もちろん私のように考査だけで入れる。と、飛びついた庶民がたくさんいるのも事実。

 

生活レベルの差が乱立しすぎのブレブレな園なのだ。

 

園の方針も「幼稚園」というか「会社経営」のようで、実績が伴うかは一期生なので謎しかない。

ただただ事務方のプレゼン力は年々強化される。

 

でも、親はそれでも一生懸命園に馴染もうと考えを曲げ、努力しているのだが、いかんせん浮世離れしたカリキュラムが多い。

 

4歳の日本人が英語で絵本の紹介をしたり、ディベート対決とかもあり、ある程度ついていけないと進級できない事もある・・。

野次馬根性の私にとっては由々しき問題だ・・。

 

例えばこの先お受験をして、ハイソがハイソにまみれてハイソに育つのであればいいと思う。

 

でも、お受験クラスは一学年に10%くらい。本気のお受験組はもはや外部に通っている。残りの80%くらいは公立の小学校に進学する。

 

と、言うことは「混ざる」わけだ。

 

これの備えはできているのか・・と、問いたい。

 

ブランコも砂場遊びも鉄棒も園にはないのだ。

工作の時間や、通常のお遊戯も歌もない。

 

ここで培われる情緒を育てる経験値は果てしなく無いに乏しい。

 

ただ、字も読めて書けて、本も読める。英語も理解できるし資格も取れる。

・・が、低学年に必要かは謎だ。

 

幼稚園、保育園でも実しやかに言われるのが、「協調性と学力の差」である。

つまり、幼稚園は教育も伴うが保育園は主体が保育だ。

 

これが小学校で「混ざる」と、クラスで落ち着かない子ども達のうち、上位を占めるのが保育園組となる場合が本当に多い。

 

で、これをディスっているわけではなく、何年かして慣れると、保育園組も協調性などしっかり学び朱に交わって赤くなる。

 

なので中学年以上では情緒や理不尽など、人間性主にを学んだ保育園組が頭角を現せたりもする。

要は良くも悪くも対応力があるというか、臨機応変な子が多い。

 

幼稚園組は可もなく不可もなく、すぐに馴染めるしそつなくこなせる。

ただ、自分を出してよい!と、タガが外れると、いったんぶっ壊れて反抗期になる子もいた。長男もそうだが。

 

でも、みんな卒業するころには一直線で、学力の差も塾に行っているから頭がいい。だけでなくなる。

 

中学に入ると協調性どころか、服装も生活態度も個性が潰されるのでここで一生懸命努力できるか、できないかでその先が凄く変わる。

 

高校は好き勝手やり、大学を意識したときにスイッチを入れられればそれでいいと思う。

 

そんな教育方針・・というか、流れを体感して出した持論がある。

あくまでも私の個人的な見解だけど。

 

ということは、この次男の通う特殊な幼児園上がりの子ども達は、公立小学校で「混ざった」時にどうなるのだろうか。

孤立しないだろうか。

 

難点はもう一つあり、先に書いたように60%近くがバス通学で県境越で通う子も多い。

普通の幼稚園であれば、園の大半が同じ学校に通う安心感があるのだが、ここの園の子たちは各地に散らばるのだ。

 

もう転校生同然のクラスになるわけだ・・そして、浮世離れしたハイレベルな教育を受けた子が、娑婆と同じ感覚で過ごせるのだろうか。

 

一見、良い幼稚園に合格し、高い教育を受け、親の出番もなく、運動会もヒールやスーツで体育館の2階から見下ろすだけのSHOWである。

 

これを「楽で幸せ」と受けるか、娑婆とのギャップに慄くのか、それは各ご家庭の考え方次第なのだろうが、私はもっとそのあとを考えてしまう。

 

「今、この子にとって何が必要だろう。」

という、大きな人生の流れに沿っての話しだ。

 

人生の浮き沈みは全てにおいて平等だと私は捉えている。

簡単に言うと、良いことがあれば悪いことがあり、バランスを保ち進む。

 

だから、反抗期など成長の過程で出さなくてはいけない鬱憤は、個人差があれど必ず決まった回数で噴出するものだと勝手に解釈している。

 

例えば、赤ちゃんの時の反抗期が遅いと親は楽なので「いいこね~」というバカもいるが、赤ちゃんがおとなしいということは、発達がゆっくりで物事を理解できていないのかもしれないし、親の圧力に虐げられて自分を殺しているかもしれない。

 

それはわからないし、でもそうでない根拠もない。本人だってわからない。

 

でも、「大人にとって都合の良い子」は、いつかフラストレーションが噴出する時期が来る。

 

その出方は様々で、言うことを聞かないなんて可愛いもんだ。

無視する、引きこもる、ウソ、暴れる、自慰行為、失語症、どもりもある。

 

それが他者に出してしまうのがいじめだったり、先生への反抗などだろう・・って勝手に思っている。

 

ただ、この噴出を関知して親が上手に発散させることはできると思う。

必ずあるもの。と、認識し子どもの様子を見ていれば、「来たな」が分かる。

 

例えば次女はスポーツで発散させたし、長男はあわや引きこもりそうになった時に一緒に学校へ行ったり、スポーツをして向き合うことで発散できた。

 

同じ兄弟でもどこで何が出るかわからない。

でも、子どもを見ていれば変化が分かる。

 

そんな時に私は先生にも詰め寄ったり、協力を求めたり執拗に迫るので、まぁモンペだとかめんどくせぇなって嫌われてるんだろうなって自覚している。

すいませんね。

 

でも、子どもを守るのは親しかいない。

 

親ばかで良い。と、信じている。みんな大切だから。

私なんか嫌われたっていい。

 

そのかわり、これ以上世間に迷惑をかけない子に育てて、世に送り出します。

 

これが親の責任かなと思う。持論だけど。

 

で、この遊べずにため込んだフラストレーションが学校に入ることでどう出るか、私はアンテナを張るとして、他のご家庭はどう思っているかわからない。

 

馴染めず寂しい思いをする子を大量生産してはいないか・・ちょっと危惧される。

勝手な妄想であってほしいけど。

 

もちろん時間が経てばすぐに馴染むのが子ども達だけど、苦手意識や疎外感は大人になってもまあまあ残る。

 

偏った教育は、ある分野に特化して一本化すれば有効的だが、得てして天才バカを育てることにもなりかねない。

プロスポーツでもいえる。

 

東大出ているけど使えないヤツとか、野球終わったら薬に走るとか、実家を継ぐことしか世間に戻れない・・みたいな。

 

それこそ個性といわれる今なので、どう生かすかも思案のしどころだが、柔軟な思考を培う時に教育を詰め込むのはどうかな・・って考えてしまった。

 

でもそう思ったとして、これが現実なんで、今どうするか。である。

 

で、実は流れに沿い小学校のお受験を視野に入れて動いていた。

得たものを生かしたいと思ったからだ。

 

でも、いろんなところを見て親の考え方の違いや、私立小学校の至れり尽くせりが子どものため・・というか、会社経営重視での実績を望んでいること。

子どもがこの先世間に出たときどう出るか。実る保証はない。

 

すごく覚悟のいることだなと痛感した。

 

それを一般庶民の我が子に照らし合わせたとき、そのハイソな人生がちょっと「かわいそう」と思ってしまった。

 

身の程を知る。って大切だ。

 

良い教育の橋かけは親だ。でも、やるのは子供だ。

子どもはこれを望んだのだろうか。敷かれたレールをただ走っているだけではないか。

うっせーわの歌詞みたいな人生ではないのだろうか・・。

 

色々悩んで、ある時次男に聞いてみた。

 

 

 

「ぼくは遊びたいんだ」

 

 

よし。

 

遊ぼう。それがいい。

 

 

だから来月、お受験コースを辞めることにした。