今朝のニュースで「主人公体質で、俺の後ろにストーリーが付いてきちゃうんだけど…」という容疑者がいた。
…どう考えても先頭はいただき女子だったとしか。
ふたりともハチャメチャなのに、その強メンタルの根拠は何なんだろう。
被害者もいらっしゃる事案なので、この言葉のみに焦点を当てる。
自分はASDなので、この世に自分の取説が存在する。
誰もが予測しうる思考回路で、その扱いや対策もどこかに記されている。
単純というか、ピュアというか、少ない手札でよく今までやってきたなと、自分を褒めたい。
もう少しうまくやれるだろう。
という場面でも、素直に貧乏くじを引きがちだった。
話せば勘違いされ、黙れば憶測を呼び、もはや「人間界って面倒くさい」くらいまで逃避していた。
自分が「実は障害です」と言われ、正直ランクが下がったな、感が否めないということは前にも記したが、正直ホッとしたというか合点がいくというか、憑き物が取れた感覚があった。
私は「ヘルプマーク」を付けるようになり、なんだか前を向いて歩けたのを覚えている。
ただ、この感覚は一時的なもので実際色々な違和感を感じ始めた。
やはり島の民。
マイノリティには塩なのだ。
「私は面倒くさいです。助けるのが当たり前。」みたいなものをブラブラぶら下げていると、周りが「気を使う呈」で、潮目が引くように離れていった。
水戸黄門の印籠くらいの効果がある。
私は「あなたはASDです。」と、言われたときダウン症の子を例えるお話を思い出した。
かいつまむと「ダウン症の子はとてもピュアな星から地球に遊びに来ているのです。」という内容。
つまり欠落した「障害」ではなく、「宇宙人」という表現だけども差別的ではなく、ファンタジーのような例え話で理解を求める物語だ。
この物語は海外のものだったと認識しているが、当時自分の状況を知らなかった私でも覚えているくらい素敵だった。
この「考え方の変換」が私にとってもすごく大事。
ASDはできることとできないことの差が、ゼロか100か程激しい。
半ばできる分「なんでできないの?」と責められがち。
できねぇんだってばよ!
だから是が非でも突破せねばいけない壁に絶対ぶつかる。
そういうとき「私は障害者だから仕方ない」という脇道か「なんで出来ないいんだろう?別の角度で見てみよう。」の回り道かで、今後の方向性がガラッと変わる。
私は自身がASDであることを知らなかったので、接客や人の目を見て話す。などの行為を「荒療治」と称して(バカだな)無理くり挑戦して追い込んで追い込んで限界突破してきた。
まあ、それでもできた。
というか、「別の人格を創造する。」という究極な感じにはなったが。
つまり「できない」というか「普通にできない」が、正解な気も。
教わった通りには絶対できないけど、迂回すれば自分の得意分野からの思考回路で問題を解決し、同じゴールテープを切ることもできるからだ。
ということは、この「宇宙人」の話はその通りなのだ。
私達障害者は脳が違う。
チンパンジーだって染色体がひとつ違うとかいうし、ダウンちゃんはひとつ足らないとかいう。
つまり一般の地球人とは作りが違う。
同じことできるか−!ってわけなのだ。
だから私はヘルプマークと称した「トラベル用のネームタグ」を付けて、地球に遊びに来ているんだ。と、仮定して過ごしていた。
45年間地球人に合わせて生活をしてきたのだ。
人生、残りの半分はそっちが合わせろ!的な。
でも、地球人側の反応はやはり差別的で、腫れ物に触る様な対応も多かった。
…地球人め…フリーザの気持ちだ…
だから今はヘルプマークを外している。
本当に自分が心に負担を感じているときには付けたかったけど、本当につらいときに疎外感まで感じたら死んじゃう。
結局「地球人のふりをした宇宙人」みたいなどっちつかずなわけだ。
つまり、最終的にどっちの立場になっても周りを配慮せず「自分が物語の主人公」とは思えなかった。
良い経験も悪い経験も糧にしてきた。
これは一人で成し遂げたわけではなく、誰かと関わって来たからこそ経験できた。
なんだか分からず人に合わせてきたり、自分中心に「周りが合わせて」みたいに胸を張っても、全ての人間が個々で違う考えなわけだから、結局万能にはならない。
そういう些細だけど見逃してはならない感情を、全部すっ飛ばして盲目になれる方がつまり「犯罪者」なんだろうな。
とか朝から思った。