「ママは生まれ変わったら何になりたい?」と、次男に聞かれた。
「自分」と言った。
「じゃあ、生まれ変わったら何になりたくない??」
「線虫」と言った。
前者は人生やり直したかったからだけど、同じことの繰り返しなら嫌だ。
後者は言わずもがな。嫌だ。
「TO YOUNG TO DIE.」とか「ブラッシュアップライフ」では、生前「徳を積む」ことで「生まれ変わりの階級」が変わるとされている。
私は仏教幼稚園&仏教中高だったので、輪廻転生とか、功徳とか、善行みたいな普段聞き慣れない言葉も、「修養」という科目があったくらいなので耳慣れしていた。
般若心経も毎朝唱えるので暗記した。
期末でテストに出る程「仏教」を学んだ私の「死んだらどうなるか。」の答えは、
「生きているから考える。」という結論。
稀に「生前の記憶がある」とか、言われがちな案件は、ギフテッドのように何れ脳科学的に解明されるんじゃないの。と、勝手に思う。
故に私の死生観も「一般的に生まれる前の記憶がない」と同じで「死んだら終わり」なのだ。「電気を消す」イメージ。
仏教ではいろんな「天国と地獄」の描写があって、「地獄」に関しては概ね同じ。
「嘘をついたら舌を抜かれる」「親より先に死んだら賽の河原」「贅沢ばかりしていると脱衣婆に身ぐるみ剥がされて罪の重さを計られる」みたいな表現がほとんど。
「目には目を罪には罪を」みたいな解釈なんだろうか。
でも、「天国」に関しては結構様々。
竹取物語みたいに「生前の記憶が全て消えて仏になる」「電柱みたいな長い箸でご飯を食べ合う(功徳の上下で長さが変わる)」「桃源郷の酒池肉林」「伴侶や家族、ご先祖様に合える」などなど。
どちらも何だか「都合がいい」。
「幽霊」などの類も妄想性障害であったり、レビー小体型認知症や「脳の誤解」などによる「錯覚」に対しての伝言ゲームで、とっ散らかったとしか思えない。
脳みそなんか2%くらいしか使ってないのだから、深海の解明率より低いのだ。
でもこうやって「善悪を付ける」ことで、生前の規律と言うか行いを正すきっかけになるんだろうし、何もない昔はそういう信仰が心の拠り所だったかもしれない。
私は様々な仮説がある「死後説」のなかで、一番こうだったらいいな。
と、思ったのは手塚治虫先生の「魂はエネルギーになる説」だ。
死んで肉体から離れた魂は宇宙を飛んで、地球上に様々なエネルギーとして降り注ぐ。
みたいな説。
「魂」自体が「生前の未練」みたいで、あまり好きではない例えなのだが、例えばそう呼称する「自分の何か」が地球の自転を促したり、太陽光となって降り注いだり、海に溶け込んで生命を作る手助けをするのなら、「自分は無駄ではなかった」と思える。
まあ実際土葬にすればバクテリアによって分解され、土の養分になるのだから物理的にも無駄ではない。
さらに言えばドナー登録(年齢制限はあるが)をしておけば、他者の何かで生きることもできる。
カノプス壺にぶっ込むよりサステナブルだ。
どこかの金持ちは窒素で冷凍保存したりするとかいうが、死んだものの管理なんかエネルギーの無駄でしかない。
国立科学博物館で剥製になっていたほうが、まだ役に立つ。
本当は「推しの子」みたいに記憶を残しつつやり直すパターンや、霊になって現世を俯瞰し続けられる…だと、夢があって面白いけどね。
現実では「今まで生まれた人間1082億人」と「今まで亡くなった人間1080億人」と、おおよそ同じくらいだ。
ということは「魂があると仮定」すると、徳を積むとか関係なく概ね人間に戻っているんだろうか。
あぶれた2億個の魂は「輪廻転生の際に人間以外にもなり得る」指標になるのかもしれない。
全滅しないと比較できないが。
「生前の善行がどう作用するか」は「誰が裁くんだ」という観点でいうと謎だが、「次生まれ変わったら線虫かもしれない」という可能性が1mmでもあるなら「今を楽しめ」と、私は言いたい。
次男に「何になりたいの?」と、聞いたら「ぼくはぼく」と答えた。
理由を聞いたら「またママやみんなと一緒にいたいから」と答えた。
…しまった…肝心なところで「自分中心」が露呈してしまった…と、後悔した。