ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

生の尊厳

動物が嫌いだ。

そんな私も、小さい頃の夢は「象の飼育員」であった。

 

象の飼育員になりたくなった理由は、ドラえもんの「ぞうとおじさん」↓を見てだった。

ドラえもん ゾウとおじさん 2-2 - 動画 Dailymotion

この頃「かわいそうなぞう」という絵本も読んでいて、「私が大事にしてあげたい」と、心から思った。

しかし、その夢が崩れたきっかけは「象の飼育員さんが象に踏まれてしまい亡くなられた」ニュースを見たからだった。

 

そもそも「動物」は嫌いではなかった。

むしろ「わくわく動物ランド」や「むつごろうさん」をよく見ていたので、どちらかと言うと好きだった。

 

成長するに連れてアレルギーも出始めたし、「生の概念」に違和感を感じ始めた。

以前書いたような「死んだら買い替える」とか「パンツをはかない件」など「生き物であるがゆえの現実」が見えてしまい、「夢から覚めた。」という例えが正しいと思う。

…ぬいぐるみではないのだから、命や権利とキチンと向き合ってあげないとダメなのだ。

この「融通が利かなくて完璧主義」な頭でいちいち疑問を感じてしまう。

 

私は生まれも育ちも都会のど真ん中だった。

だから「幹線道路、国道、高速道路」なども入り組んでおり、結構な頻度で猫や鳩、カラスが轢かれて死骸が転がっていた。

私はこれを放っておく事ができなかった。

 

ある時は路肩に埋めて、お小遣いでお花を買ってきて埋葬したり、死骸を回収するために夜中の国道に立ち入ったこともあった。

どうしても「見て見ぬふり」ができなかったのだ。

生き物が成長し、育った過程で作られた「個々の肉体の尊厳」を、走り去る車が踏みにじることは「死者に対する冒涜」と思っていた。

 

なんなら、「風で倒れた植木」も見つける度に起こしてあげていた。

 

こういう事態に遭遇すると、どうしてもいたたまれなくなり「誰がこの猫の体を踏みつけ続ける所業を止めるんだ!」と、悲しくて仕方なくなった。

 

猫が事故にあってしまったのは不運なのかもしれない。

でも、不運だからその猫が一生懸命生きてきた証(肉体)を無下にして良い訳では無い。

誰かが「頑張ったね。痛かったね。ゆっくり休んでね。」って言ってあげないと、その猫の一度しか無い命は何のために生まれてきたのだ…。

と、そこまで考え込んで辛くなってしまうのだ。

 

だから小さい私は国道でも幹線道路でも「死骸」を見つける度に回収し、路肩に埋めてあげてお花を備えた。

…この行為がとんでもなく危険であったことには全く気づいていなかった。

だからやっぱり「おかしい子」だったのだろう。

 

小さい頃の「奇行」には大抵「意味」があった。

でも、私は「変人」扱いされて気味悪がられた。

 

「嫌われているなー」ってわかっていたから、一生懸命「野生の発達障害者」として自ら社会性を学んできたわけで。

今はカモフラージュできてはいるん(たぶん)だけど、社会的に合わせると、自分の「根本的な意識」に対しても見て見ぬふりをして、心を畳んでしまわないと不自然なわけだ。

なので、たまに置き去りにした死骸に「申し訳なかった…」と、心がフラッシュバックしてしまうこともある。

無論、私が轢いたわけではないのだが罪悪感が消えない。

 

 

昔の出来事なのだが、どうしても心から消えない猫がいる。

一人で車を運転している時、大きい交差点で大渋滞となり、右折の車のせいで直進できないほど混み合う中、道路の真ん中で一匹の猫が轢かれていた。

 

この猫、体は完全にぺしゃんこだったのだが上半身は無事で、かすかに鳴き続けていたのだ…。

この猫に周りに車も殆どが気づいていて、「避けるために低速」になっていたから渋滞していたのだった。

誰も降りる人は居なくて、むしろ「早く誰か楽にさせてあげたほうが…」という暗黙の他力本願がまん延していた。

 

私は今すぐでも飛び出したかったのだが、4車線が入り組む交差点の反対車線での出来事で、ただでさえ右折で交差点内に侵入しているのに、咄嗟に運転手の私が車を降りることができなかった。

 

私はこれを今でも

「自己保身で他人任せにした卑怯な言い訳」だと抱えている。

私が飛び出していれば…いや、それで猫が元気になる保証もない…。

そんなのはわかっていた。

 

交差点を抜けた後も「路肩」がずっとない道路で、右折待ちにナビで「どこかコンビニ!!」と、思って探したが時すでに遅し。

私が顔をあげると、猫は道路と一体化していた。

…涙が止まらなくて苦しくて、嗚咽で声が出るほど泣きながら運転したのを覚えている。

 

これは私の資質なのか、ASDであるがゆえの「何か」なのかはわからない。

でも、「生き物」に対しての同調?が半端じゃなくて、結果的に私は「動物が嫌い」になった。

 

簡単に言うと、辛いことから逃げているだけだ。

 

何に例えたって、自分以外の大切なものには同じ感情なのだが、「わざわざ自分に負荷をかける必要性がない。」と、逃げ回っているのだと思う。

 

動物園も本当は好きだ。

でも、あの状況(留置所みたい)の動物が好き…って…本当の好きではなくて、自己満足なのでは…また、考えてしまう。

上辺だけで捉えられない。

 

そういうところも「頑固で割り切ることができない」ので、結局「嫌い」と逃げる。

命を軽視する行為が耐えられないのは、自身の経験か、仏教学校だったからなのか。

 

どちらかわからないけど、私はどうしても「その生き物が生きてきた尊厳」を自分本位に解釈したり、無下にすることは今でもできない。

 

だからこの先もずっと「動物は嫌い」なんだ。