ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

他人の会話

子どもの習い事での待ち時間。

大抵は車にいるのだけど、仕事があるときはWi-Fiを求めてお店で待っている。

 

単純な仕事なので、周りの会話が耳に入る…。

自分のお店で働いているときもそうだが、意外と客席の会話って筒抜けである。

 

例えばビルの上層階にいるのに下にいる人の声がよく聞こえたり、海にいると並行している人の声がやたら聞こえたり…。

みたいな理屈で、「話し声が厨房に集約される」感じで嫌でも聞こえてしまう。

 

たいてい飲食を交えてするお話なんか、年代によりけりだけど「時事」「近況」「愚痴・悪口」みたいに大きくグループ分けできる。

今日も私の真横と真ん前に座った女性二人の会話が筒抜け。

 

大まかに言うと「愚痴」だったのだが、「愚痴」って意見の相違や感覚の違いや勘違いが積もり積もって「不満」になったものだ。

相手に不満が募るのなら「距離を置く」「当事者同士詰め寄る」二択しか無い。

 

でも、「それができないので、とりあえず発散する」のだろうが、「当事者同士ではないので決して解決はしない」堂々巡りでしかない。

 

この場合、「不満の解決」よりも「現状維持」を優先しているので、こういう行動を選ぶのだろうが、「現状維持」を「会話の相手」にも要求しているようで、どうも腑に落ちない。

 

「お前は愚痴れば気が済むのだろうが、こっちは”自分自身の不満+お前の愚痴”まで背負う」わけだ。ただの二重苦では。

そんな苦を相手に背負わせる…友達同士ではないのだろう。

 

私は相手に不満を持つと「回避」しがちだ。なぜなら「反芻思考」があるからだ。

一回シャットダウンしないと「永遠にそいつのことを考え続けてしまう」。恐ろしい。

それでバランスを取る処世術であるので、自分の心には適した対応だと思っている。

 

なので「共感を持って収めようとする」感じがわからないし、人生において同じ案件が複数あっても解消せず「同じ疑問を拡散し合うだけ…」と、いう謎の行為が不思議でならない。

 

私の真横にいた二人は大学生くらいで、会話の内容としては「仲良しグループのうち、1人が合わない」という議題。

真正面は40代くらいの女性二人で、お子さんの話が出ていたので多分主婦。

議題は「職場の問題児」についての傾向と対策。

 

…この他人同士である4名の会話、大きく「愚痴」としてジャンル分けでき、内容としては「同じ」である。

「コミュニティー内でのいざこざ」が議題なわけだ。

 

これってどの時代、誰にでもあり得る内容だが、いい加減自分なりに確固とした対策があっても良いと思う。

 

「問題児」と言われる人の傾向を分析し、それに見合った対策って長い人生を歩むうちに練れるんじゃないだろうか。

 

何度も同じような場面が訪れるのなら、「貴方にも問題があるんじゃないですか?」

人が誰かと同じような会話をしていると、いつもそう思ってしまう。

 

「…あなた達だってこういう状況がお初なわけではないですよね?」と。

 

誰かに拡散して理解者を募ることが目的なのか、今面と向かっている相手と毒吐き合って「お互いをはけ口にしている」のか。

それであれば「相手の存在意義は”ゴミ箱”」でしかない。これで「ト・モ・ダ・チ」と言えるのだろうか?不思議でしょうがない。

 

だって「当事者がここにいない」わけだから「解決は望んでいない」んだろう。

話し合うだけ無駄じゃないだろうか。

 

こんなところで躓いていたら、この先なんぼでもある同じような事案に「同じ労力」をかけないとならないわけだ。

「共有する、迎え撃つ」のではなく、「学習する、繰り返さない」みたいな会話は他人とはできないのだろうか。

 

基本的にASDは「雑談」が苦手である。「雑談には意味なんか無い」からだ。

私もASDなので、会話に「建設的であるか」など「意味」を求めがちだ。

 

出来事に関しても「二度と繰り返さないように」など、「経験を記憶して失敗を回避する術を考慮し挑む」という「慎重さ」というか、「効率」を重視するため「同じ失敗を繰り返す旦那」とか見ていると理解不能でイライラする。

 

「失敗は致し方ない。でも、なんでそこから学んで生かせないのか?」

という喧嘩をよくしてしまう。

 

旦那としては一つ一つの案件が「いうてどうでもいい」くらいのスタンスで、私に不満を漏らしたりする。

私は「本気でその案件を解決するつもりで対処する」それには「困っている家族への手助けになれば」と、いう思いもあり、結構ガチで対策を練ろうとしてしまう。

 

…でも旦那は「寝たら忘れる」という、絶望的な人間で、難題を振られた数だけ「私の負担」になり、大喧嘩に発展する。

 

で、だ。

 

私が「こういう捉え方をしてしまう」ということは、10年以上侵食ともにするうちに「学習」して然りだ。

 

してない。

 

これが、許せない。

もう、「不満に関して真摯に考えた気持ちを裏切られた」というより、「俺に言うな」の方に焦点が当たっている。

 

…これに旦那気付かない。

 

なので、私がキレると「解決は望んでいなくて…」みたいな言い訳から入る。

そこじゃねぇ。そこが共有できてないから、同じ間違い繰り返しているんだよ!!

 

と、腹が立って仕方がない。

 

答えは一つだ。

「私に愚痴るな。」以上。

 

この日本語が通じるまで、あと何十年かかるんだろうか。

もう少し真面目に考えてほしい。

 

私の思考には「継続」か「終了」しか無いということに。