ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

同じことの繰り返し

今日は都内に用事があったので「コメダ珈琲」のモーニング。

モーニング発祥の地である愛知県からの参戦なので、流石に美味い。

ドリンク一杯で「トースト」が無料でつくのだが、オプションでサラダを頼んだ。

これで880円。

 

COCO'Sがこのお値段でバイキングなので賛否はあるが、「元祖モーニング」って感じで好きだ。

もちろん「あんトースト」にした。

 

我が家には26歳を筆頭に、末っ子次男7歳まで4人の子どもがいる。

 

私は教師でもないのに30年弱子育てをし続けているわけだが、どの世代の親と関わっても「デジャヴ」を感じる。

つまり、「子育てに進化がない」である。

 

例えば

幼稚園ママさんとの会話、「サンタ説、兄弟の付き合い方、習い事、レジャー」

小学生ママさんとの会話、「交友関係、自転車、仕事と両立、旅行」

中学生ママさんとの会話、「SNSとの関わり方、塾、進学、部活」

高校生ママさんとの会話、「男女関係、交友関係、担任の愚痴、部活、旦那との今後」

などなど。地域や年号が変われど、段階を経て議題は同じ。

 

私はすでに一周回ってしまっているので、「もう一度同じ疑問を持つ人達」と、人生をやり直している。

…誕生から死ぬまで「人間が生きる過程」が変化しない限り、この「親の思考」の進化は望めないということだ。

 

今日もどうでもいい話し合いに参加してしまったなぁ…と、辟易。

小学校での「子どもの成長」に関しての雑談会だ。

テーマは大きく2つ「子どもとのコミュニケーションの取り方」「性教育」である。

これを1〜6年生の親が話し合う。

 

…答えは「出ない」が目に見える。

 

まず、この集まりに母親しかいない事。

子供が同性であれば「…私の時は…」と、考えられるだろうが、「母親が男子を理解する」って結構限界がある。年齢も6〜12歳と幅広い。

親だって30〜50代と幅広い。

兄姉がいるご家庭、弟妹がいるご家庭でも差がある。

こんな「ケースバイケース」である問題に対して同じ卓で話し合う必要性がわからない。

 

案の定「親の問いかけと子どもが受け止めるタイミングのズレ」とか、「スポットでの質問か全体像であるか」「年齢、性別での問題点、対処の違い」そもそもが「個人個人違う」者たちが集まって、納得する答えを出そうぜ。

という企画自体が間違っているので、出る疑問も解決法も「全員未解決のまま」終わった。

 

親ってもれなく「予期せず」とか「下準備もイメトレ」みたいな状態で、突然子どもを「さぁ育てなさい!!」という責任が降りかかる。

今まで「子どもだった」立場の親が、小さい命を授かり「今日から親ね。」と、半ば強制的に「精神の格上げ」を強要されるわけだ。

 

もちろんそれ相応に覚悟を持って挑むも、「イレギュラー連発」相当読み込まない限り「聖書である育児書」何かに出会えることもなく、大抵は「現場の力で乗り越えていくしか無い」世界となる。

失敗や間違えはやらかしたあとから気づくし、「正解がない」地獄。

 

そこに「年長者の助言」…なんか入れ知恵入ったら新興宗教並みに信じてしまう。

でも、実のところ「年長者”自身”の助言」に過ぎず、自分の家庭と照らし合わせて合致することなんか絶対ない。

 

「絶対答えがない。」コレが育児だ。

 

では、なぜみんなで話し合って解決策を練るのか。

まず第一に「女性ってそういう生き物だから」より良いものを残す原生からの指名があるため、情報交換は女性の要だ。

そしてもう一つ「カウンセリング」の類。

要は溜めているものを吐き出してしまおう。という理屈。

なので整合性も問わないし、実際帰ったら内容も覚えていない。

ただ「講習会に行きました」という史実で「親頑張ってます」感を出すことが目的である。

 

子育てをしているうえで感じるのは「てっぺんが見えない」ことと「隣の芝生が青い」という事。

 

自分の子供を如何に「より良い環境で手塩にかけて…」と親が努力したところで、子どもは自主性を憚られ自立しづらくなってしまう。

結局「子どもがどう感じ、自身が何を正解とするのか」という事に自ら気づいていかないと成熟した大人になれない。

「外野が騒いだところで」というのが正解なのかも知れない。

 

なので私が感じた子育てでの「理想論」は、いちいち問題を潰すよりも「壁にぶち当たったときにどう考える子に育つか。」が、重要だと思う。

 

具体的な例でいうと「性教育」に関してSNSでの弊害が恐ろしい。

と、ひとつひとつ問題点を上げている親がいた。

じゃあ聞くが、あなたは子どものときに「性的なもの」をどう受け止めていたのですか?思い出してほしい。

 

誰だって「見ちゃいけない」ようなものって「見たい」周りのお友達が凄く知っていて、自分が何も知らないと恥ずかしい。

結局「同じようなこと」を隠れてやってませんでしたか?と。

で、放おって置けば良くね?と、私は思う。

 

もちろん「過剰摂取」みたいな極端な場合は大人が監視しないといけないだろうが、年令や性別によりけりとはいえ、「そんな大事になりそうな家庭環境」ではとりあえずない人が大半だろう。

 

これを問題視して「まだ早い!危険!怖い!」と親が勝手に注意喚起したとして、いつその親の監視下から子どもは開放されるのか??

このさじ加減も親次第であったら、子どもはどう思うのか???

私だったらまず家を飛び出す。

 

今の時代、SNSや性的誘惑から子どもを守ることが非常に難しい。

昔なら河川敷に落ちていたエロ本から学んだものが、今はどんどん検索できてしまう。

そういう状況の家に居ながら「怖い怖い」言っているのはおかしくないか?

じゃあ、インターネット破壊すれば解決するのでは?と、私は思う。

 

それができないわけだ。

できないのに「SNSが悪影響」って…は??と、思う。自分だってもってるじゃん。

 

できないならできないなりに対処するしか無い。

「今はこういう時代」と腹をくくる。

我が子が「そういうもの」に興味を持って隠れてアレコレしたとして、「どう自分で結論づけることができるか」そっちを大切に育ててほしい。

 

降りかかる情報過多に目を向けていたらキリがない。

見たいものを「見せない(排除)」という教育ではなく、「こういうものもあるけど、どうする?」と、「この子はどう判断するか」と自分の子供を信じ、「自分の行きたい方向性」を正しく判断できる子に親が育てればいいのではないだろうか。

 

自分を振り返ってもそうである。

河川敷のエロ本や、公衆電話や電柱に張ってあった裸体の女性。

昭和だって「やべぇもの」に囲まれていたが、それを親がいちいち問題視して遮ろうと躍起になっていただろうか。結局何もしていないんではないだろうか。

 

自分だって幼心に見たところで、自分なりに流して把握していた。

それでいいと思う。

 

子どもは純粋で真っ白な状態から育っていくので、親はその過程を目の当たりにしていると「これでいいのか」のオンパレードであると思う。

でも、小さな問題よりも「その子自身の適応能力や対応力」をきちんと育てておけば結局自分で学んでいくものだと思う。

 

また、「オブラートに包んだ=いい子」ではない。

良しとされないものから学ぶことも大切で、「では何でダメか?」を自身で知ることが成長だと私は思う。

 

しいて親ができることといえば「子どもの変化」にアンテナを張っているべきかなと。

これは痛烈に思う。

 

これも年令や性別、その子自身の心の成長の段階でそれぞれ違うが「この子の年齢でこれは…」というボーダーラインってあると思う。

そこに踏み込まない程度の規制。(後に自ら見に行くんだろうが)

中高生になったとき、外部から与えられる誘惑への対処が「この子はできているのか」

こういう事に気を配り「子どもを守る」ことが親としての指名かなと思う。

 

そのために、普段から「親=相談できる人」という関係を築けているかどうか。

 

こちらから「どう発信するか」を重視するよりも「子供のタイミングに合わせられるか」という親になることのほうが大切かなと。

イムリーパーの私は思った。