ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

未来の自分

来月誕生日が訪れる。…次女と同じ日。

自分の誕プレを自分で買うの巻。ぷちサンプルシリーズ「わくわくお誕生日会」。

 

更にカイロソフトの新作「ドラえもんのどら焼き屋さん物語(ドット絵)」も購入し、総額8000円未満で自分を労った。…細けぇの好きだなぁ…。

 

アラフィフ…精神年齢が推定12歳止まり。

発達障害者あるあるとはいえ、相変わらずチープな人間である。

 

さて、歳を重ねる恐怖に苛まれ、100歳の老人は世界をどう捉えているのか。

という記事を読んでいた。

 

結論から言うと「成るように成る」だけの話で、気の持ちよう。

環境の変化により幸福度の焦点は常に移動するが、いうて全体的な平均値は±0「トントン」である。という結果。

 

健康の有無、社会的立場の消失、自然の摂理、老化、人間関係での重要度の値、生活環境などなど。

様々な角度から幸福度を図ると、当人が若かった頃と比較しても大差ないそうな。

 

自身が想像だけで考えると、年を取るほど死生観も強まるだろうし加齢による不自由も多くなる。

単純に「どんどん悩みが増えて今より苦しいのでは」と、推察してしまう。

とくに女性は見た目も中身も「老化」に弱い。

 

でも、悲しいかな「社会的役割からの乖離により手放せたもの」の方が深闇なようで、年を取るほどに粗が削がれて「老年的超越」という「心が神に近づいた」ような悟りが開ける瞬間が訪れるそうだ。

 

…現在進行系で雑多を生きる身としてはよぉく分かる気が…。

 

なにか「自然の摂理に近づく」事で得られる幸福感とは、Iターン切望者の心理に沿う理屈である。

私も子育てが終わったら登山とキャンプを趣味にしたい…自然に帰りたい欲求。

 

でも「若かりし頃の活動的な自分」と「自然の摂理で”何か”から離脱した」自分。

「究極の開放感」が「幸福」に当てはまるのであれば、ただの俗世からの「解脱」じゃないのか。

 

例えば研究熱心な方が生涯研究をし続けたら。

社会的なつながりはガッツリだけど、自身の欲求に忠実である幸福感は得られるだろう。

更に何かをやり遂げたら「達成感」も付加となる。

 

単純に「年取って、もうろくして、何もかもどうでもよくなった感」が究極の幸福。

と、提唱されても「…え〜…」って思う。ボケただけやん。

 

でも、この理論では宗教やある種の信念によって統一した思想を持ち、世俗に背を向け自分と向き合うことで「超越」を味わうとしている。

 

年を取ることで「この様な事に現を抜かす時間もあるだろう?」ということだろうか。

これ、わからんでもないけど「人身御供」や「即身仏」に沿う思想ではないだろうか。

 

昔の人ってオフがクソ暇なわりに生きる事が過酷すぎて、ある種の「迷走」疑惑な伝説が多い。

例えば仏教では「千日回峰行」という7年間のべ4万キロもひたすら山歩きをする「修行」がある。冷静に考えておかしい。

 

あんなの何もない時代の人間が、生きるのが苦しすぎて「頭を真っ白にしたい」と躍起になった行動としか思えない。「祭りの起源がバカ騒ぎでした」みたいなノリだ。

この行動のどこに論理的な思考が隠されているんだろうか。

 

大体「動物園の動物」みたいに育った我々が、荒野に放たれて「自由です」を突きつけられたら「大抵そうなる」んじゃないだろうか。

 

インドのサドゥーのタパスも「信念を曲げない」「やり遂げる」に過剰な焦点を当ててしまうと、過酷であるほど「達成後の喪失感」パないんじゃないだろうか。

ただの「究極の後悔」であり、過酷なアスリートや迷惑系YouTuberの心理みたいに「どんどんエスカレートした先の自滅」しか私には見えない。

 

どちらも目的は「悟り」なわけで、やっている方からすると身を捧げてもよいと思うほどの信念なわけだ。

精神が淘汰されることが「究極の幸福論」みたいになってしまうと「生」がつまらないものになる気もする。

 

「痛みからの快楽」は、性癖みたいで不自然だ。

108つの煩悩。これが「人間」である。

 

それありきで「自分なりの幸福論」を追求するとなると、結局落とし所は「納得」しかないのではないだろうか。

 

「こうだからこう」という平均値に自身を当てはめたところで、絶対に「違う」部分は否めない。

自身の「詰まり」を理解し納得して、自身を諌め「波風を消す=心のゆとり」。

 

「心身を揺さぶるような外界の邪念からの乖離」だけでは得られない「個人の歴史」に背を向けてはいけない気がする。

 

感情のない能面みたいな老後が「幸福でした」は無い。

 

結局「研究」なので代表値を求めたに過ぎないのだろうが、他人の「死生観」って知ると面白い。

今の人は100歳まで生きるよりも、80歳前後で死にたいという希望が多いそうだ。

 

おそらく「ピンピンコロリ」を示唆するものだと察するが、「死」なんか生きている限り、今すぐにでもやってくるかもしれないものでもある。

逆に言えば90歳過ぎても自立している人はたくさんいる。

 

年齢を目安に物事を考えると、自身の「時の流れ」に焦点を当てがちだが、「DNAがタンパク質を生成する際のメチル化が加齢と関係するのでは」という解釈が進んでいるそうで、人間で言う「◯歳」というのは「自然界的に老いの指標ではない」…というのが定説になりつつある。

 

これ、よく考えたらその通りで、公転により365日と括ったのは古代エジプト人であるわけだ。

生物の起源が40億年前で人類の起源が500万年前で、更に6000年前のエジプト人が発見した時間概念など、自然界からすれば完全に「後付け」なのだ。

 

現在であれ、自身が子供の頃「50〜60歳は老人枠」であった思考が四半世紀で「60歳現役説」とアップデートされている。

見た目も体力もたった50年で相当変わったと思う。

 

信長の時代なんか「人生50年」なのだ。

食や生活環境、医療の発展や様々なサポートの向上により、400年かけて寿命が2倍に増えている。

「人生100年時代」まで伸ばしたのは「単純に人の力」である。

 

これを踏まえても老化の速度なんか「環境によりまふ」が、妥当だと言える。

 

バランスの良い食事とストレスフリー、鼓動を抑えた速度で、エネルギーを最小限にして生きていれば、臓器の損傷も抑えられて自身のDNAを最大限に生かした年月生きるんじゃないだろうか。

 

亀が長寿だという事でも証明されている。

いかに外界が有害であるかも証明されちゃうけど。

 

今は科学の力も相成って、壊れた臓器もiPS 細胞で復元できるそうな。

脳機能が現存されるかは不明だが、医療と科学が合体すれば「人造人間」だって夢じゃない。

 

生の倫理観とは逸脱してしまう行為は不適切だが、クローンの研究も同じ遺伝子の羊が生まれた辺りからどこまで進んだかもわかんないし、人の尊厳に関わるような「夢(欲)」は表沙汰にするべきではないのだろう。

 

というわけで、誕生日きっかけでここまで思考が飛躍するわけだ…自分の知識の範囲内ではあるが、なんならまだ書き続けられる。

 

なにはともあれ「そんなに長生きしてもな」思考の人が多いということは、自然界での均衡を保つわけで「意外とみんな普通なんだな」と、いったん腑に落ちたので終わる。