ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

わたしのドメイン

今週のお題「わたしのドメイン」お題に沿う。

 

ドメインなんか無いからわからないけど、英数字などで何かを登録するときに、数十年前に若者から習った「n→h」「o→0」「u→v」みたいな、落ち着いて読めばうっすらとわかる書き方でよく登録する。

 

自分の名前や子ども達の名前などを「うっすらわかる」感じで入れると忘れないからだ。

 

で、ママ友話に移行するが、メールのアカウントが子どもの名前から自分の名前に変更されると、浮気疑惑が浮上していた。

 

女性はそんなところも見逃さない・・。

 

ママ友づきあいにおいて、SNSでの在り方でも人間性を問われるが、LINEなどでのアカウント名でも品格を問われる。

 

くれぐれもネタのつもりで地雷を踏まないように、子どもの付き合いがあるなら子どもの名前かせいぜいペットの名前で押さえておこう。

 

ちなみに旦那の名前オンリーも地雷である。

 

 

本棚の中身

今週のお題「本棚の中身」お題に沿う。

 

私の本棚の7割は自己啓発本という、残念な結果を先に知らせておこう。

 

残りの3割は、偉人の一言とか、世界の絶景とか、チェゲバラとか。

奥田秀雄さんの伊良部シリーズと妹尾河童さんの少年Hは面白くて何度も読んだ。

 

例に漏れず、女性の品格とバカの壁、カモメのジョナサンに世界がもし100人の村だったらなどはしっかり押さえている。

 

本屋というか、ヴィレヴァンに入りびたりなのが分かるだろう。

 

 

子どものころはミヒャエルエンデの「モモ」が大好きだった。

あと、分厚いグリム童話集2巻は根暗だったので繰り返し読んでいた。

 

そんななかでも気に入っているのが画集。

 

それも木梨憲武展やバンクシー展へ実際行って購入したもので、全然知識もないけどインスピレーションで好きだと思ったからずっと持ってる。

 

本屋へ行くとその時の自分の心境に沿った本を購入してしまう。

 

悩んでいれば自己啓発本、遠くに行きたいときは旅行本、自分を変えたいときはファッション雑誌。

 

そんな中で世の中の平均を知りたくてLDKを購入したが、いかんせん文字も写真も小さく、情報量が莫大で記憶に何も残らなかった・・。

 

役に立たなかった本といえば、ヨガのCD付きBooksとか美文字の練習テキスト。

 

 

なんか買ったらやった気になって終わった。

 

 

ズレてる夫

先日、腹痛で病院へ行った旦那が怒っていた。

いつもの病院がお休みで、初めてのところへ行ったらしい。

 

「・・酷い病院だった。」

 

なんかあったの?

 

「急いでるから、とりあえず薬を出してくださいって言ったのに、血液検査だの検便だのやるとか言い出して・・」

 

 

・・・・ほぉ。

 

 

「診断まで時間がかかるから、すぐに薬が出せないとかゴネ初めて・・」

 

 

・・へぇ。

 

 

「・・急いでるって言ってるじゃん。しかも薬も二日間しか出さないとか・・もう嫌がらせ。」

 

・・・。

 

「それで会計4000円越えって???ぼったくりじゃん!!!(怒り心頭)」

 

 

 

小僧よ、それは初診料・・。

 

 

 

どの角度から考えても、その病院の対応は至極真っ当としか思えない。

 

残念な結果だった。

愚痴

愚痴とか嫌な事とか、今の時代は共感してほしいからかSNSで垂れ流す。

 

完全に自分視点で、さも「私に非は無く(または反省しているのに)相手がおかしい」を多方面から自己分析し、結論自分の正当性で幕を閉める。

 

で、共感した人のみで会話を繰り返し、反論は無視。

 

・・というか、YESマンしか囲っていないから、そもそも反論もない。

同調心理の塊のような繋がりしかない。

 

で、私自身も納得いかないと書いてしまっている。

これってなんか解決策になるんだろうか??と、自分で不思議に思った。

 

だって、嫌なことを忘れかけていてもブログを読み返したら鮮明に状況が残されている。

 

女性は過去のことでも、思い返して今起きたかのようにキレることができる。

 

解消しているようでストレスを増徴させていて、実際「いいね」が集まったとしても事実は何も解決していない。

 

では、なぜ意味のないこと(むしろしなくて良いこと)に労力を削ってしまうのだろう?

 

納得いかないことに共感してもらって、何か変わるのか。

 

「誰にでもあるよ」とか「わかるー」って凄く無責任だ。

本質を解決する言葉ではないから。

では、どうしたら解決するのか?

 

 

当事者同士の話し合い。

 

 

・・・これに尽きる。重い。

 

 

とすると、問題提起したほうも実際のところ悩んでいるわけでもなく、「ネタ」として自分の倫理観やモラルをアピールしたいことが本音の「キラキラSNS世代(仮)」かもしれない。

 

こうやって隠し玉を乱発する今の時代、真相ってどこにあるのだろう。

 

話しは飛躍するが、私は社寺が大好きだ。

もちろん宗教的な意味合いではなく、荘厳な空気感が好きなだけ。

 

でも10年位前に御朱印を集めていた時は写経を収めたり、意味合いを持って集めていた。

 

でもあれから10数年。

もはやスタンプラリーと化した。

 

そして賽銭も電子マネーになり、ついに「マイル」ならぬ「マイリ(参り)」というポイントまで付くようになった神社もある。

 

本質はいずこへ・・。

 

別に熱狂信者じゃないから、運営のためには苦肉の策か。

とも思うが、ご当地キャラならずご当社寺萌えキャラとか、アニメなどの聖地巡礼とか、顔がいいばかりのキャラクターののぼりとか見かけると、ちょっともう見てらんない。

 

寺なんかその裏にガチ仏様が鎮座しているのだ。

いったい何に対して手を合わせ、お守り(グッズ)を購入していくのだろう・・。

 

次女曰く、今の若者にとって社寺はファッションっであり、赴いた史実で倫理観をアピールする手段だったり、インスタ映えのスポットでしかないそうだ。

 

というか、それ以外で何の意味がある??くらいな考え。

 

つまり限りのない「自分主義」ばかり先立って、物事の本質より見た目。

経験値より写真。という薄っぺらくてだだっ広い世界観で生きているのだ。

 

これらの新人類に合わせると、ブレ始める気持ちは理解できなくもない。

つまりは変化なくして発展もないからだ。

 

この先日本はアニメと漫画に支配され続けるんだろうな。と、先見の明は悲鳴を上げている。

 

そういう世界になりつつある今、小さなことでぐちぐち言うのもナンセンスだ。

 

中身より見た目(数字)で自己評価が下されるなら、下手な小細工辞めて小ざっぱりした容姿で黙っていたほうが利口なのかも。

 

他人とのコミュニケーションが増々退化しそうで、この先老いるのが怖い。

 

私の凝り固まった「昭和感」と同調できる人ってどんどん減っていくから、自分が新人類に合わせるしかないわけだ。

 

逆にちょっとイラっとしたくらいで愚痴を書き込んだら、「古い!」と、袋叩きにあう日もそう遠くはないのかも。

人生で一番高い買い物

今週のお題「人生で一番高い買い物」お題に沿う。

 

いわずもがな「お店(開業資金)」「車」である。

 

でも、いずれも一括ではないので話題の趣旨に合っているのだろうか。

 

とりあえず現金一括で買った「物」と言ったら結婚指輪かなぁ。

宝石もなく、プラチナの一般的なものだけど。

 

旅行や分割ではもっと高い金額を支払っているので、それ込みの一番高額な買い物であればやっぱり車かも。

 

既存のスタイルに加え、ビジュアルにちょっと手を入れてるのでスペック低いわりに高額だ。

 

でも改めて言われると、車と歯の矯正くらいにしかお金を積んでいない。

矯正は終わったし。

 

ブランド物も宝石も時計も持たない我が家。

空き巣が手ぶらで帰れるカジュアルさ。

 

高額なもので虚栄を張る文化が無いので、好きなもの→いいもの(自慢に値する)という価値観だ。

 

一見チープで良さそうだが、これに加えて酒もたばこもギャンブルもやらないので、子どもがそのまま年食った感があって、実際いい年コいた自分が恥ずかしい。

 

ブランド物を持つことで背筋が伸びた経験はある。

 

そう・・なけなしのお金で買ったコーチの財布を持った時だ・・。

 

しかもコーチ・・・。チープ代表格。ドンキでも手に入る。

 

でも、ちょっと無駄に財布を出したり財布だけ持ったり透明のカバン買っちゃったり。

ウキウキしたし、めいいっぱい見せたがっていた。

 

だからちょっと見栄を張って、ラクサスとか本気で考えたりした。

でもこれこそプライドを捨てた戦略な気も・・。

 

40も超えて大した金遣いしてないなぁと、恥ずかしい。

宵越しの金は持たないつもりなので、土壇場で無駄に高い壺とか、宗教につぎ込んで死ぬんだろうか。

 

私の一張羅は依然としてダイエーで4万円払ったお受験スーツだが、起業家セミナーなどでよくいる、女性の成功者はキャバクラのように皆さん華々しい。

 

 

 

・・もう軽くディスっちゃってるから変わんないか(笑)

 

 

精神科医の器

色々こんがらがっている私は、カウンセラーや精神科医の方と話すことも多かった。

 

しかしたまに意にそぐわない事を言われたり、持論に基づく方、虚を突かれてキレちゃう方もいる。

 

・・患者はわたしでは・・。

と、スン↓としてしまう。

 

次女が大学で落ち込んでいた時も、30分話し合っただけで

 

「お母さん。娘さんは鬱の症状があります。また、自殺願望も抱えその手段を検索してしまっている様です。これは一日中目を離さず、ご実家で療養されたほうが良いでしょう。」

 

いやです。

 

と、ここからバトってしまった。

もちろん攻撃したのではなく、自分の意見をとっても素直に言っただけ。

 

 

まず前提として五月は新学期直後の長期休み明けで、環境の変化が目まぐるしく、一般的にも鬱々としてしまう時期である。

 

そして未成年、一人暮らし、初めての大学。

不安要素もてんこ盛り。

 

 

この時期、この年代・・おおむね皆さん悩んでるんでは????と。

 

 

自分の生い立ちを振り返っても、朝起きられずに固まってしまったり、嫌なことばかり渦巻いたり、対人関係がおっくうだったり、不眠だったり、引きこもったり退学したり。

挙句の果てに「完全自殺マニュアル」まで買ってしまったり、混乱しまくっていた。

 

当時はネットが無いから、本屋で学生がこの本を直に買うって相当勇気がいる。

今なんかちょっと気になっただけですぐに検索できるのだから、死にたいって思ってすぐに検索・・・よくある事では???と思う。

 

でも、別に実行しない。だって「死を計画する余裕」があるなら大抵しない。

みんなそんな自分とどうにか立ち向かって、苦難を乗り越えてきたはずだ。

 

これをいちいち「病気」と、位置付けるなら病気でないってどういう状況???って謎しかない。

逆に毎日ポジティブで前向きが止まらないなら、それは躁状態で病気だ。

 

 

つまり、年齢相応の人生の壁にブチ合ったっているだけの子供を、たかだか30分で「異常」と位置付ける考えには抵抗があります。

 

 

と、その精神科医にぶっこんだ。

ら、ブチギレられた。

 

私は近親者に鬱や統合失調症認知症の方もいて、その行動の異常さ(表記ごめんなさい)に圧倒された経験がある。

 

本当のソレ、本当に人が壊れていく過程って心が締め付けられるような空気間で、近くにいるとより何かが分かる。

とても抽象的で言葉に表すことは難しいけど、例えるなら第六感みたいに心が直に何らかの異常を察知する。

 

とにかく「これだめだ」がすぐにわかる。

 

もちろん人それぞれを前提だけど、自身も機能不全家族にいたためその真意は「あながち」だ。

 

だからろくにカウンセリングもせず、パソコンに症状を打ち込むだけの先生にカチンと来た。

そもそも大学のカウンセリングルームに派遣された精神科医で、若くて身なりも派手だった。

 

・・あなた出会いを期待していませんか・・とか思ったり・・。

 

ああ、嫌いだから嫌味しか出ない・・・。

 

そのうえ面倒くさそうな生徒とカウンセリングをして、その史実が記録されたうえで自殺などされたら自身に傷がつくのをビビりまくってるようにしか見えなくなってしまった。

 

だからとりあえず「病気」として、近隣の心療内科に責任を丸投げして「仕事しました」感だしていませんか?

っていう疑問すら生まれた。

 

あなた向かい合っている患者は見えていますか??

 

彼は30分で娘を査定したが、私は悩みを打ち明けてくれた時、すぐに連れ帰って直に娘と話したり、その環境下(一緒に大学を見て回ったり)を知ろうと努力した。

 

とにかく40過ぎたおばはんの人生俯瞰視な主観ではなく、彼女の身にならないとわからないと思ったからだ。そのうえでの相談だった。

 

でも、100歩譲ってその診断が正しいこともあるかもしれない。いうてプロだし。

でも、どう見てもこれは思春期特有の「甘ったれ病」だ・・としか思えない母の感。

 

なんか嫌なはざまにいるな。と、結構悩んだ。

 

私は患者側なので、正直先生の裏現状とか真相とか知らない。

 

ただ、カウンセリングや心療内科って自分の心の痞えを受け止めてくれる、ないし発散させてくれる場だと認識している。

 

だから話すときも私は100%歯に衣着せず、真っ向から真実を述べるようにしている。

 

それは相手への攻撃ではなく、自分との葛藤でもある。

何かを打破したい!と、前を向いている証で、だからこの場にいるわけだ。

 

でも、そんな疑問を一蹴するようにぶちギレられて、

「大きな病院へ行ってください。入院施設もあるようなところ。紹介状は書きますが、あて名はいりませんよね???」

って言葉を目をひん剥きながら3回言われた。

 

もう恐怖。

 

あとはパソコンに向かい呪文のように「お母さんがずっと見ていてくれると。お母さんがずっと見ていてくれると。お母さんがずっと見ていてくれると。お母さんがずっと見ていてくれると。・・・」唱えながら診断内容を記していた。

 

 

それは病気です先生。

 

 

そんな言葉も飲み込んだけど。

 

ああ、自分がしっかりしなければ。

コイツ、ダメなんだ。

 

また、スン↓と落ちた。

 

病院にもたまにこういう方がいて、疲れてるのか人間性に問題ありなのか、

患者と向かい合いすぎて呑まれたのか・・とにかく自分の異常に気付いてくだされ。と、呆れてしまう。

 

 

これが医者の不養生であれば、とんだ迷惑。

 

 

それこそカウンセリングや精神科医はAIがやるべきではと、考えが飛躍してしまう自分がいた。

 

なんか心を通わせあったり、情けや温情の時代じゃない気がする。

SNSのおかげで自己完結が蔓延し、我慢強さが退化している今、医者も人間だ。

 

真に信頼できて、雑念が無く、清廉潔白な存在はもはやロボだ。

ヒューマンエラーを抑制する観点でも、心相手の先生はAI化してほしい。

 

 

カウンセリング行って、いらん悩みが増えるの嫌だよ。めんどくせぇ。

 

なんでだろう?

なんでだろう??

 

って常に思う。

意にそぐわないこととか、イラっとしたときとか、意味不明のものや人について。

 

そう言うと「考えすぎだよ」と言われるので、考えていることすらダメなのか??

と、また疑問が生まれる。

 

また「疲れない?」と聞かれることもあるが、逆に問いたい。

なぜ考えない??と。

 

自分の考えって結構一辺倒で結論もワンパターンだ。

それで満足なら言葉もないが、他人の意見や反発ってアイデンティティをウィルスみたいに侵食する。

 

普遍性より変化を好むわりに、目の前のものを直視するよりは受け流したい。

そのためには、何事も俯瞰視すれば全体像が見えると思っている。

 

で、離人感が生まれると大体のことは冷静に分析できる。

 

こういう症状も私にはあって、今でこそ解離して考えてるなと意識できるが、昔はまあどこで何をしていても色がついていない世界というか、臨場感もなく他人事でつまらなかった。顔も能面だし。

 

でも、いろいろあってカウンセリングへ行き、自分の現状がさらされたときコイツのおかげで取り乱さずに済んだ気がする。

 

??誰の事?(自分)みたいな空虚。

 

どう治すかではなく、どう共存するか。個性としてプラスに考えるか。

 

他人より面倒なシフトボタンが多いわけだから、使わない手はない。

と、前向きに考えている。

 

私は勉強するけど、極端に苦手だ。

どちらかというと観察して読み取ったり、実行して失敗したほうが覚えが早い。

 

【学校】という場所や協調性主義な空気感、やり方などは本当に合わない。

しかし、最近セミナーや単発の聴講などは頭に入ることに気づいた。

 

何が違うって「仲間意識」

 

学校は足並みそろえましょう。のプレッシャーが感じられるが、後者は自由で校則もないし拘束もない。下手をすればみんな敵だし自分次第。

 

そう考えると、自分が勉強できない理由は頭角や劣等感にある気がする。

サバイバルに突入すれば何かのタガが外れるのだろう。

 

そうすると自分はバカなのじゃなく、何かしらの圧によって抑圧され、自身を解放できていないだけなんじゃ??って思い始める。

 

なんかもう犯罪者のアレみたいな思考だ。

 

で、過去の事例に基づくと、結論父親のせいだーー!!ってムカついてしまう。

実際のところ、おおむねそうなんだけど。

 

最終的にこう(私のように)ならないためには?

と、今現在の子どもとの関わりにも答えが見えてくる。

 

何かしら心に抱えていると、子どもも同じ症状に悩まされてしまうことがよくある。

具体的に言うと虐待やネグレクト。

 

この心の伝染病は自分だけ納得すれば良いものではない。

 

私は父親と共に治すことが一番。と、言われ父親を精神科に召喚しようとして余計もめた。

 

確かに相手からしたら、自分は正常でお前の頭がおかしい!と、なってしまう人に「治そう」は意味不明だ。

異常の自覚が無いんだから。

 

そんなこんながあってか、今日もひとりで人間観察しながら「なんでかなー・・?」って考える。

 

「普通ってなにかなー?」とか。

 

 

 

どうせ死ぬのに。

 

って言われたらぐうの音も出ないが。