さて、卒業式の季節となった。
例に漏れず、謝恩会やら先生への贈答品に色紙等々。
母達は慣れない共同作業に終われる。
いや、正しくは「慣れない人達」との共同作業。
…案の定、百発百中でもめる。
困った。
私は長女が25才なので、幼稚園や小学校でのこのような洗礼は、20年前に終了している。
それから何度も打ちのめされて、砕けた欠片も時の流れで風化した。
離人感も相成り、他人のいざこざなんか幽体離脱して天上界から見下ろしている感覚なのだ。
何でもパターン化してしまう思考回路なので、もめ事の結論が見える。
もう、未来からやって来たタイムリーパーのようだ。
占いとかって統計学な訳で、行動心理学とか民生など様々な要素を加味すれば、大抵の人間は区分される。
あとは誰にでもあり得る端的な例えで、誰にでも当てはまるようにできている。
つまり、パターン化って「あながち」である。
もちろん例外はあるが。
現在、周囲がざわつく程の均衡で作業が進行されようとしている。
誰がジョーカーか、傍観者か、ユダか。
役者は揃った。
私はどこに位置するのか、まだそれだけが不明である。
回りには見えているのだろうが。
ただ私は身内のもめ事を「他人事」ではなく「自分事」として、捉えたい。
他人のもめている状況を、揶揄して話題に出すほど意地が悪いものはないと感じる。
みんな胸が痛くなるほどもどかしい思いを抱えていると思うし、私もそうだった。
何かを作り上げる過程で、ぶつかることは悪いことではないはずだ。
同じ方向を向いているわけだから、せめて顔を上げて欲しいと願う。