自分が定型発達だと思っていたら→発達障害となったため、「定型発達にしてはおかしかった」と、自分を分析しがちだったが、その逆ってどうだろう??
と、先日の記事を読んでから思い始めた。
要は「基準を発達障害とする」ものの見方である。
大抵の人はマジョリティから「一般的、普通」を分別するが、マイノリティ目線で物事を考えたって良いわけだ。
ちょっと前に「給食の試食会」で、「おやおや…」と、謎に思ったと書いた。
そういうことが今までもたくさんあって、いくつか例にあげたが、私の個性とか性格でそう感じたと言うよりか、「私の特性でそう感じている」と考えたほうがやはりしっくり来る。
私は人と同じやり方ではできないタイプだったため、残念ながら学校のお勉強ができなかった。
しかし視空間認知や分析力のIQは、かなりずば抜けている。
簡単に言うと「客観視で状況判断することが得意」ってことだ。
自分でも思うが、ある出来事から一旦離脱して、上空から全体像を捉え本質を見抜き、論理的に分析する力に長けている。
しかし誰かに発信する際、どうも「一般的」とかのマジョリティ側の意見を尊重しがちで、「私のほうが変だけど…」と前置きをして妙に卑屈になっていることが多かった。
なので、今回のちょっとした出来事は自分から行動せずに「定型発達」さん達のやりとりを観察してみた。
今回の出来事はこれだ。
市内で開催するスポーツイベントが月に2回ほどあった。
市内の小学校の体育館をお借りして市内の住民が自由に参加できるのだが、このイベント「アナウンスと日時と場所を決めるのは市役所」そして「当日の指導は各小学校のスポーツ部コーチ」である。
問題点はこの「運営の仕組み」だ。
市民には登録義務もなく自由に参加できる。
当日は土曜日なので、役所の人間は来ないし出勤していないから連絡も取れない。
スポーツ部のコーチは、現場の取り仕切りを任されてはいるが、学校行事や自身のチームが何らかの好成績で急遽大会進出などした場合、無論本業を優先。
更に市民宛に何の通達手段も用意されていないどころか、当日の責任の所在が不明。
そもそもコーチは体育館を間借りしているだけで、学校関係者ではない。
よって、学校は無関係である。
つまり参加者は「開催するかしないか、当日の現場で知る」
開催者、現場監督、会場側が見事に分断された、完全に企画倒れなイベントである。
この煩雑なイベントに、市内各所からスポーツ好きな方が集まるわけだ。
もちろんスポーツイベントなので、それなりに「スポーツをする支度」をして早朝からみなさん集まる。
親子で参加する方たちは、飲み物や持ち物も「スポーツに適した」ものをわざわざ家族で用意しているわけだ。
で、本日そんな方たちが約10数名、締め切られた体育館の前で宙ぶらりんになった。
どう考えても我々は「ドタキャンを食らった」のだ。
その時の様子である。
体育館は完全に施錠されていて人気がない。
いつもなら30分以上前には人が集まり、多いときは60名ほどの参加者や家族で賑わうイベントだ。
最初は集合時間が刻々と迫ってはいるが、ひとりふたりと増えていくため「開催時間が遅くなった??」と、錯覚する。
親子連れや子供だけの参加者が、鍵の閉まった体育館の前で立ち往生。
時間が立つに連れて「…??」という空気が漂う。
みんな周りの方たちと情報交換すればいいのに、まずスマホ。
10数名の大人が全員下を向いて、何か情報を探し始めた。
…きっと情報はどこにもない。
大抵この時点で私は「帰るかー」と、行動している。
しかしながら全員上手に同じ行動をし始めたので「面白いな」と、思い観察することにした。
皆下を向いているので、ワンチャンクラブチームのXにでも記載してあるかな…と思い、ガラケーしかない不憫な私は「〇〇スポーツクラブのXとか検索できますかね…」と、隣の人にちょっと話題を投げかけたが、すぐに「公式サイトには何もなかったですねぇ…」と的はずれな答え。
もう一度開けコラ。
ドタキャンしてるのにHP更新するんかい。まずはXとかにポストじゃないんかい。
可能性を潰した考えは私も同じだけど、そこか。自分もドタキャンのときはそこからか?
一般的な優先順序として、まずはLINE→XまたはFacebook→公式サイト(ブログ)とかだと思っていたけど?
おいらガラケーだしどれもアカウントすら持ってないが、今は違うんか?
それが「チームメイト」ではなく、「市民レベル」への通達で、「急遽」であるならどこから更新すれば効率的に認知が広がるか考えてみーーー!
って、思ったけど「あ、そうですかー(にっこり)」と、流した。
そのあとも必死にスマホとにらめっこで、開催時間が10分すぎても誰も話さず立って待っているだけ。
とりあえず座ったり、風の当たらないところに移動したり、知り合い同士で輪になったり…一切なし。微動だにせずスマホを見ていた。
子供が飽きて「まだー」が始まるも「今調べているから!」
…いやもう無いよ。何調べているんだよ。
10人が一斉に同じワードで検索しているだけなんじゃないの?
非効率だから分担するとか、意見交換すればよくない??
そこの2人、他人同士だけど30センチも離れてないじゃん。
スマホから離脱して前見ようよ。もう休みだよ。帰ろうよ。
なんか不憫…。
ここから謎の同調圧力が始まる。
どなたかがお子さんに煽られイラッとしたのか、
「今調べているから待ちなさい!!」
と、恫喝したのだ。
空気が一瞬にして「ピリッ」として、みんな更に黙って顔を挙げなくなった。
そして「帰る決断ができているのに金縛り。」みたいな感じになり、全員石になった。
ついには「誰かが口火を切ったら倣います。」の、他力本願発動。
こうなったら「何か」待ちだ。
変な人達だなーと思いながら、私は一歩下がって皆を見ながら一人座っていた。
20分経つともう満場一致で気持ちは「帰ろう」なんだろうが、依然としてスマホに逃避。
数名ゲームし始めちゃう謎の「待機時間」。何この無駄な時間。
そしてついに一人のおじさん(勇者)が口火を切る。
「…これは…中止ですかね。」
!!!!結論出るまで長げぇ!!!!
いわずもがな全員同じ思い。
誰もスマホで繋がっていないのに、何故か共通のこの思い。
全員「何かから開放された安堵の表情」おっさん救世主。
「…ですよね…(苦笑い)」最初の返答者。(後の犠牲者)
「〇〇ー帰るよーー」(子供をダシにして「解散しましょうか」という言及の責任から逃れる変化球。「私帰りたいんだけど、イチ抜けは嫌だから誰か先に帰って」の暗黙の合図。)
「今日、無いんだって。帰ろっか。」(この期に及んで他人が見えていない発言)
おっさん面前で総スカンに合い、何か藁をもすがる感じで最初に「…ですよね…」と、相槌を打ってくれた方に食いつく。
「どこにも連絡がないしねーこういうの困りますよねー」
「そうですねー」
「でも前回60名くらい来られていたのに今日は少ないなーと…」
「そうですねー」
「一部はどこかと繋がってるんでしょーねー」
「そうかもしれないですねー」
「ぼくね、先月も参加していて…」
…30分間溜めていた鬱憤は、最初の返答者にぶつけられ続けていた。
これは長くなりそうだ…。
その様子を察知し「巻き込まれてはかなわん。」と、続々と「ほらっ早く帰るよ!!」と、いたるところで子供の回収が始まる。
おっさん、話を切り出した手前終りが見えない。
最初の返答者、更に終りが見えなくなる。
この辺でいい加減私も「観察」に飽きたので「朝マックして帰ろー」と、自分も楽しむことに切り替えた。
これは一つの出来事に対しての見解だが、この流れって人や事情が変わってもだいたい一緒だな。って思わないだろうか。
私は常に「パターン化」する脳なので、これと類似する過去の出来事がすぐにいくつか思い浮かぶ。
この時集まった10数名が「おかしい」わけではない。
スマホによる弊害というか、情報に頼りがちだとこうなるよのお手本と言うか。
むしろ世界ではスマホの普及率が70%を超えるわけだから、もはやコレは「当たり前」の部類になってしまっている。
スマホ所持者は「出来事」に対しての向かい合い方が一律して同じなのだ。
「まず検索」
いやいやいや…検索は人生の答えわせですか。
Wikipediaだって100%じゃないんですよ。
「自分で考える」「失敗から学ぶ」これらを端折った人生を送り続けると、咄嗟の危機管理能力はどう鍛えるんですか。と、訪ねたい。
「失敗が嫌」「誰かに聞かないと不安」「マジョリティに倣うのが正解」その思考は「電脳」です。
その証拠に昨今「創造的能力」を持つ方が減っている気がする。
その代わり発展していると感じるのは「アレンジ能力」だ。
この意味を深く考えてほしい。
つまり、スマホを持つことで世界中の老若男女が「まず検索」という思考に統一されてしまったら、そこから「オリジナル」は生まれない。
これは物体であれ、思考であれ同じことだ。
そういうことに気づかずこの風潮が進行していくのなら、人類はどんどんものを考えなくなり「現状維持」を第一に「変化」を怠るのだろうなと私は感じる。
ちょっとしたことでここまで全体を俯瞰している。
だから日常的に「…何でだろう??」て、思うのだ。
これが私の「ものの見方」なのである。
最後に想像してほしい。
この状態が大多数での「災害」での弊害を…。
電源があるうちは「現実より情報」電源がなくなったら…何し始めるんだろう??
バッテリー争奪戦であろうか。
「まず水、それから暖を取る、トイレ、凌ぐ場所」など自ら動けるんだろうか。
私だったらまずこういう人たちから距離を置くけどな…。