ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

当事者だから言えること

私はASDだ。

結婚したので同居はしていないが、長女もASDだ。

長女はIQ高い系発達障害者でお勉強ができるタイプ。

サヴァン症候群に近く、過集中がありコミュニケーション能力はスライム並。でも結婚できた。

彼女はそもそもが純粋で素直なだけなので、理解できればこれ以上の伴侶はいないと思う。頭がいいので何でもできるし。

 

私は正確に言うと高機能広汎性発達障害で、ASDを主体としたADHDの多動性障害も併せ持つハイブリット定型発達障害者である。

その他、機能不全家族によるアダルトチルドレンであり、様々なパーソナリティ障害を「二次障害」として持っている。

字が汚くてお勉強ができない。

ただし手先が器用で、頭に浮かんだものは絵でも物体でも概ね具現化できる。

発達障害は運動音痴のイメージもあるが、二人共スポーツはめっちゃ得意だ。

 

私の「二次障害」は、基本的に精神疾患なんで治療でどうにかなる。

しかし土台が定型発達障害のため、上に乗っかった不自由が取っ払われても「素っ裸の定型発達障害」が残るだけ。

そもそもこの「二次障害」が出てしまったのも、根本に「定型発達障害であったから。」という事情があったわけで、どう転んでも自分は「普通」にはなれなかったんだろうなと、もはや開き直っている。

この二次被害の原因は「両親」だ。

 

長女は男の子を出産したが、言葉が遅い。

トミカを延々と並べ始めたので「オワタw」と連絡してきた。

ちなみにうちの次男6歳も黒に限りなく近いグレー。(自己判断)

 

長女の子ども(甥っ子)と次男(叔父さん)がプレイランドで遊んでいた時、甥っ子は15分間回る遊具で大回転し続け大喜び。

後ろを見ると15分間トランポリンで跳ねている叔父さんがいた。

長女と私は「オワタw」と思った。

 

以前、「親が知ること」の大切さを書いたのだが、本当にコレは大切なことだと思う。

最近「発達障害者の子を持つ親」の手記やブログをよく見るが、残念ながら当事者として結構違和感がある考えの方が多いのに気づいた。

根本的な解釈を間違えていると言うか。

 

具体的な事例では、「癇癪のあるタイプのお子さんに手を上げてしまった。」というエピソードである。

 

この行為に対し「育児で疲弊し、つい叩いてしまった。悪いことだとわかっていたのに同仕様もなかった。落ち着いた時、子どもを抱きしめて泣きながら謝った。」

このエピソードに対しての他者のコメント、

「わかります。私も手を上げてしまったことがあります。事態に向き合い、謝ったことできっとお母さんの気持もわかってくれたと思います。」

返答、

「本当に子どもに申し訳なかったです。二度と同じことが無いように気をつけたいです。」

的なやりとり。

これを発達障害の当事者から見ると、「自己完結」と認識してしまう。

 

つまり、子どもは何も解決していない。

母親同士が自分を言い聞かせているだけである。

 

「叩かれた記憶はいかなる場合でも消えない。」からだ。

 

では、なぜそう思うか?

まず、記憶の仕方の違いだ。

通常「記憶」を可視化すると「箪笥の引き出し」とか「ピラミッド型に覚えていて、下に行くほど薄れて消えていく」とか言われる。

しかし私や長女の場合でいうと、「写真集」である。

その場面その場面がパラパラ漫画で、写真のように記憶、「出来事」を引き出すと漏れ無く「場面」も付いてくる。小道具まで絵に描いて再現できる。

 

つまり「部分的な争点(叩く行為)」を消化したところで、全体像で覚えているため「嫌な記憶」は消えない。

しかもネガティブ要素が残りやすいため、下手をすれば一生残る。

その後に母親がしたフォローは当人にとって「別物」であり、叩かれた記憶と紐づいていないから、絶対に癒えることはない。

 

むしろ「行為(叩かれた)」に対する接点がよくわからず、「情緒不安定な人に振り回されているような違和感」を感じる。

 

なぜなら「人の気持ちを汲み取ることが苦手だからだ。」

この、「過ちに対するフォロー」は、定型発達の子に関しては有効だと思われる。

しかし、我々にとっては「一連の流れ」とも思わないので、「コレはコレ。ソレはソレ。」と、分断して考えてしまう。

この母親の行為自体に恐怖感や痛みを感じているのだから、その後に意味はない。

 

なので、やった行為は払拭できないものと思ってほしい。

なぜなら全ての出来事に対しての「捉え方」が違うからだ。

 

例えば「親は子どもに優しい」という定義があったとして、これを「言葉のままに記憶、行動する」のが私達だ。

そのなかに現実的に起こり得るだろう「ハプニング、アレンジ」などのイレギュラーは存在しない。

 

もしこのイレギュラーな体験により、「親が子どもを守れなかった。攻撃をした。」という事態が発生すると、我々は「親は恐ろしいもの」と、アップデートするだけのことなのだ。

これが「白黒思考」である。

 

何かしらの軸が確固なるものとして存在し、その軸に沿って真っすぐ歩いているだけなので、その軸が歪んだり裂けたりするとバランスを崩してパニックに陥る。

これを修正するためのフォローとか外部の呼びかけは、あまり届かない。

単純に「落ち着く時間が必要」なだけである。

時間が経って、軌道修正できればそれで安心するからだ。

 

この事例による母親サイドの気持ちだが、私は経験値もあるのでいい加減理解できる。

「人間」だからだと。

そもそも自身が欠陥品(障がい者)だとも思っているので、完成体(定型発達)に対してどうこう言うのも筋違いかなとも思うが、母親だって完全無欠ではない。

「過ちに対して向かい合い、謝罪して正す。」人道的で良いと思う。

 

では対、発達障害者に「救い」はどこにあるのだろう?

私は考える。

「叩かれた痛み、苦しい気持ち」これは残ってしまう。

どう謝られようが、「過去は変わらないから」だ。

 

しかし、その後の母親の行為ももちろん子どもは見ている。

「何で泣きながら謝っているんだ?叩いた事実は変わらないのに??」と、気持ちは全く理解できないが、不思議に思ったり、悩んで相談をしている姿を子どもはちゃんと見ている。

その時は分からないが「自分のために何かを尽力している姿」をしっかり記憶している。

 

その「もがいている姿」こそが愛情なんだと、全体像を捉える脳みそで理解する日が絶対にくる。

これが「救い」であり、「それでも意味はある」という理由である。

 

私自身は「自身が発達障害者だと気づいていない両親」に育てられ、彼らも「我が子が障がい者」だとは微塵も思わず、「厄介な子ども」と認識したまま今も現存している。

この両親に育てられた私は、自身が障がい者であることを40歳すぎに初めて知った。

小さい頃の恐ろしい思い出は、一生消えない。

謝られたところで二次障害は治らない。

こんな思いをこれからの子どもたちにさせたくはない。

だから歯に衣着せずに発信している。

 

多動で10秒も着席していられなかった私でも、いわゆる「社会性」を学び、自力で人生を歩いてくることはできた。

この道を「いばらの道」にしないようにするのが、きっと親御さん達の役目なのかもしれない。

 

「希望はある」私はそう提言する。