ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

なぜピン?

動物つながりでもう一つ。

特に「推し」がいるわけでもないのに、動物の写真をピンで撮りたがる人。

何で撮る??って不思議。絶対…見返さないと思う。

 

とくに旅行などで、「もう二度とここには来ないだろう。」という旅先や、動物園などでやりがちではないだろうか。

 

景色ならまだしも、動物だけを撮る…?ブロマイド??

家族や知り合いを入れたら思い出だろうが、家族や連れがいるのに動物のみ必死に撮っている方を見かけると、不思議でしょうがない。

動物のベストショットが欲しければ写真集を買うとか、検索すれば?と思うし、図鑑のほうがよっぽど詳細に説明されている。

 

以前、上野動物園が予約制だと知らず(今は違う)入れなかったので国立科学博物館へ行った。

その際、地球館の3階で寄贈されたたくさんの動物の剥製を見た。

「こっちのほうが近くでゆっくり見られて最高だ。」と、思った。

パンダなんか「シャンシャンケツだけでも30秒」しか見れないのに対して、剥製は開館から閉館まで見れる。

しかも全部本物。アレルギーも出ない。天候にもご機嫌にも左右されない。

すべての動物がカメラ目線で、写真は近接で取り放題。誰も並ばないので観察として実に効率的だった。

 

昔家族旅行へ行った時の出来事だ。

旦那が「バナナワニ園」で「バナナ」も「ワニ」も撮らずに、マナティが呼吸するため上がってくる瞬間まで待ち続け、水面から鼻が出たとたんに連写していた。

 

…それどうする。

 

彼なりに「レア写真」撮れた!と、鼻をふくらませていたが、マナティは肺で呼吸をするため10分に一度は浮上する。

レアどころか「日常」である。

そんなマナティの顔のドアップを20枚以上撮っていて、私も子どもも「ふぅ…」となった。

 

例えばその瞬間を我が子と撮れば思い出だろうが。なぜピン。

案の定メモリーがいっぱいになった際、いの一番に削除された。

私の性格なのか、脳のせいなのか分からないが理解できない行為のひとつである。

 

やはり「こだわり」が強い事は否めなくて、随所にそういう感覚が盛り込まれる。

もしかしたら私の中で、「この旅先での目的」などが決まっていて、それと異なる行為に不自然さを感じているのかもしれない。

「予定以外は無駄なこと」と、捉えているフシがある。

 

例えば「ぞうの国で象に乗る」と決めて予定を組んで向かったとする。

この時、私は「象に乗る予約」が取れるまで、気が気じゃない。

「乗る」と決めた日が半年前なら、半年間随所で思い出しては「確実に乗るためにすること。」とか、乗れなかったらどうしよう…とか、グルグル考え続けてしまう。

そして一ヶ月前くらいからウェザーニューズで天気を確認し始める。

 

これだけ労力を費やしているため、当日「確実に乗れる権利」を得た時点で、乗ってもないのに「あー良かった。もういいや。」とかなる。

もはや「皆が無事乗れた」時点でミッション達成。

自分が乗れなくてもどうでもいい。

何かから開放された安堵感が実体験を上回っている悲劇。

 

また、逆に「乗れなかった」ときの落ち込みようは半端ない。

家族にとって「残念だったねーまた来ようー」のスタンスが私にはない。

なぜなら半年前から練りに練った企画が頓挫したからだ。死活問題。

「失敗、後悔、労力、不眠」など全てが無駄に終わり、「また来ようー」の「また?っていつ??」と、再び疑問が生まれてしまう。

この時点で私の頭の中に「年間行事表」が浮かび、同じように家族が休みを取れて、この地に舞い戻るまでのルートや、「次は2回目だから別の場所に行こう」などの具体的な案を解消するまで延々と考えてしまうのだ。

 

で、結果旅行中不眠。楽しめない。

 

旅行といえば「予定詰めすぎ」という癖もある。

基本、行き先のオープン30分〜1時間前から並んで確実に駐車場をゲットする。

そこからの行動は「分単位」で決められており、おみやげに買うもの、ちょっとした食べ歩き。全て「予定通り」でないとイライラしてしまう。

これを以前までは「強迫性パーソナリティ障害」と診断されていたが、ただの定型発達障害だった。(ただのって変だが)

要は「普通じゃない」という状態。

 

でも、これにも凄く理由があった。

当時私はシングルで朝昼晩と必死で働いて3人を育てていた。

その子どもたちに「世界中」を見せてあげたかった。

こんな毎日をこなすだけの小さな世界だけでなく、もっと広い世界に連れ出して思い出を沢山作ってほしかった。

 

でも現実は難しくて、どこに連れて行っても「次いつ来るかもわからない」状態だった。

だから思い残しはしたくなくて、詰め込みすぎた。

移動時間に子どもたちを休ませて、私は夜どうし運転していたりしたのだ。

この行動力自体も「多動性障害」なのだが、「良いこと」として必死に頑張ってしまっていた。

 

後から長女や次女に指摘されて「おかしい」と、気づいたので今はそんなこと無いが、この「休まずに続けてしまう行為」もASDの症状のひとつだった。

なんだか「良かれ」と思ったことでも「障害ですー」と、なってしまい虚しい。

 

つまり「予定」通りでないと違和感を持ってしまうため、自分の考えとは違う行動をする人を理解できないのかもしれない。

 

私は動物園へ行く。というのは、まず「アレルギー対策」から始まる。

メガネを付け、マスクをして、手袋を持って、薬を飲んでから行く。

そもそも「興味がない」目的は子どもたちの情操教育一択だ。

 

そこで旦那が子どもそっちのけで動物の写真を撮り始める。

違和感しか無い。

 

「子どものため」に来ているわけで「私達は引率者です」という認識だからだ。

まず「楽しむ」ために来ていない。「楽しんでほしい」と思って来ている。

その「楽しんでほしい」の中に旦那はいない。

 

アナタは運転もしないし金も払わないのだから、「子供の安全を見守る。子どもを記録する。」だけでいいのに、自分が楽しむな!!!!

という怒り。

 

私は「旦那=家族」とまだ認識していないんだろうか…。