ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

自分事

思うがままに書き連ねるのがブログなわけで、自身の当時の思いを読み返すと「良い先生に出会えていない」とつくづく感じる。

 

私には「高圧的な人に従ってしまう」特性があり、これが「いじめられっ子」になりやすかった要因でもあった。

とにかく「こうです」と言われると「はい」以外が浮かばない。

 

小学校の時の暴力教師や父親から受けた暴力も「自分が悪いことをしたから叩かれるんだ」と、「全部自分が悪い」と思っていた。

反発した途端、殺されるんじゃないかくらい恐ろしくて足も震えて金縛りに合う。

だから相手の意見に従い、黙ることしかできなかった。

 

過去に出会った精神科や心療内科の先生は、「良い先生」以前に「良い人」でもなかった。

パソコンとしか向かい合わない先生、私の話を一蹴して「気のせい!カウンセリングに来なさい!」と笑う先生。何年通っても「結果を出さない」先生。

次女の時のカウンセラーなんか、「何かあったらお母さんのせいですから」を始終ちらつかせ、責任の転換を図ってきた。

 

当時の私は自分が何者かわかっていなかったので、全て「先生」という肩書に従って何年も棒に振った。

「先生」が言うならそうなんだろう。と、バカだな。

 

結局「発達障害でした」と、言われ、「でした」って何やねん。と、思ってから、障害者手帳の更新時以外はどこにも通院していないし、薬も一切服用していない。

ただの人間不信だ。

 

なので人が言うことに対し「素直に受け止めていない」ところも大いにある。

手を差し伸べる相手に対し「偽善者」が拭えない。本心が見えない。

もう少し対人関係に余裕が持てる環境で育てばよかったのだが、ナウシカのテトくらいビビりながら他人に牙を向いている自覚がある。

 

さすがにコレでは後に「世捨て人」になると思い「人の意見を聞こう」と講演会などに通っているわけだ。

でも、やはり自分のATフィールドは分厚いなと感じることが多い。

 

例えば講演会などでちょっとしたジョークを言う人がいる。

すると周りに居た人が「ドッと笑う」このとき、ものすごい違和感を感じる。

 

「何で笑った??」

 

同じ瞬間に、赤の他人が同じ様な音量と声色で同時に「ドッ」と笑う。

これに私が着いていこうとすると、「どういう声を出していいか」まず考えてしまう。

「ドッ」といえば良いのだろうか…いや、みんなそんな笑い方していない。

でも聞こえてくる「音はひとつの集合体」として出来上がっている。

ここに甲高い笑い声が入ったら、不協和音だ。

 

これが毎回分からず、ものすごい「疎外感」に襲われる。

私が見えない何かでみんな繋がっているのだろうか?私だけ仲間はずれにされているんだろうか。どこから指示が出ているんだ??という不安。

結果「障害者だからわからないんだ」という意味不明な劣等感。

 

この「ドッ」と同じタイミングに同じ音量で揃って笑えたら…私は「定型発達者」になれるのかも。

と、ずっと考えてしまう。

 

つまり、「同じ話を聞く=みんな仲間」という勝手な連帯感で安心してその場に座っていたのに、実は私だけ「仲間に入っていない?」と、実感することが多い。

これを裏切り、というと語弊があるが、それに近しい負の感情で受けてしまい何だかモヤモヤ傷に残る。

 

それでもたまに「良いことを言っているなー」と思う先生もいて、熱心に耳を傾けるわけだが、周りを見るとその先生の言葉に始終頭を「うんうん」と振っていたり、はけるタイミングで「ありがとうございましたー!」みたいに叫ぶ人がいると驚愕する。

新興宗教???」と。

 

それに加え、企画側の気遣いを目の当たりにすると(お花を渡したりタクシー呼んだりお見送りしたり)「慈善事業じゃないもんね。仕事だもんね。」と、興ざめしてしまう。

当たり前なんだろうが、自分が今聞いて信じた純粋な心が「お仕事だしね」で踏み潰されたような気持ちになる。

 

勝手な解釈だとはわかっている。

世の中何かを食い物にして回っているのだ。

こっちも「その知識、利用してやるぜ」くらいが丁度いいのだろう。

 

…私はそれが本当にできない…。

 

自分がそうやられたら嫌だ。だから他人にもしたくない。

それで相手に100%を求めるのも筋違いなのだが、わかっていても自分が「図々しくなれない」心のなかでひとりで葛藤する。

これはASDだからなのだろうか。私の性分か。

 

こういう心の駆け引きがサラッとできて、いらない人をバッサリ切れて、必要であれば利用する。

…これが私の目指している考え方なのかなぁ…と、思うと、やっぱりちょっと違う気がしてしまうのだ。

 

誰かを信用する…ってやっぱり難しい。