自分の過去のブログを読み返していると、症状丸出しの記事がいくつもある。
断片的、羅列的、ひとつのセンテンスに話題を盛り込む。
なんか自慢しがち、稚拙、なのに難しい言葉を使ってしまう。
接続詞や句読点が変。あげたらきりがない。
これもASDの人の文章の特徴らしい。
書いている時点では全然気づいていないのに、誤字脱字も多い。
「犯罪犯(犯罪者)」「先見の目(先見の明)」「嫌煙(懸念)」とか。
このブログは定型発達障害だと気づいていない頃から書いている。
読み返していると、障害だと気づいてからはより文章に気をつけているなぁ…と感じる。
…感じたけど、話題が「何かに付けて障害ありき」みたいになっているのもちょっと嫌だな…と自分でも思う。
素直に言うが、自分が定型発達だと思いこんでいたときは「鬱とか障害者とか」の文言を避けてしまうというか、ナーバスになりたくない…と、文章を読みもしなかった。
以前、テレビで吉本興業の芸人の方で、視覚障害をもたれる方が「自身の自虐ネタ」で笑いを取ろうと奮闘していた。
…正直笑えなかった。
弱者と無意識に認識してしまった「差別…」といえばそうなのか、「構えて気を使ってしまう」というのが正直な気持ちなのか、表現が難しいがとにかく「笑いの正解」が全然見えなかった。
この「笑うところ」を万が一でも外してしまった場合、周囲にとんでもない空気をもたらせてしまうのではないか。
自分の主観でクスリとでも笑ったら、自分は世間一般的に見て「鬼畜」なのではないか、という謎の恐怖すらあった。
この「見えない一体感」の中、同調圧力を打破して素直に笑うにはとんでもない勇気が必要である。
でもたぶん、その視覚障害者の芸人の方は素直に「笑ってほしい」だけだったんだと思う。
問題は「ブラックジョークなのか、自虐なのか、とんでもないピュアか」どの意図で発しているか、受け手側が全く理解していなかった。
まあ、どれをとっても「不謹慎」さは拭えない。
これが障がい者としてのネックかなと思う。
例えば猫や犬が人間と長くいて、「自分が人間だと思っている」という表現をする飼い主さんがいる。
この飼い主さんがアレだ。
とかは置いておいて、そんな環境下で育つとそれぞれの境界線を錯覚してしまうらしい。
それと同じで、障がい者の私達も変に境界線が定型発達寄りに引かれていて「同類」として考えてしまう場合がある。
絶対「違う」のに「同じ思いだろう」みたいな錯覚。
その温度差に気づかないと、定型発達の方が良かれと思った(どちらかというと)反応が辛辣に思えて、こちら側も不本意に傷ついてしまうこともあるあるだ。
ASDの場合は、「相手の気持を汲み取るのが苦手」思考と相成って、「同じラインで聞いている」みたいに勘違いしてしまう場合もある。
そして「空気を読むことが苦手」も相乗効果。
せっかく楽しんでほしくて発している言葉も総スカンとなってしまう。
…っていう空気感を自分からも感じて来たの巻…。
障がい者が言うと気を使うと言うか、素直に笑えないというか…。
笑っていただいた方が嬉しいんだけどね。
なんか自分には障害以外に特色が何もないみたいに思えて虚しい。
にしても、自分のなす事全てに「ASDとしての説明」が付くからムカついてきた…。
何でもかんでも症状にしやがってー!!ムキー!!(←この子供っぽさも症例)
なんかこう…変化球投げてやりたい…「え!?ASDなのにそんななの!?」みたいな。
「…だと思った…」路線から脱したいのだが、ねぇ「普通」ってなんだろう…?
「普通」模索し始めた時点で「普通」じゃねぇな…ちくしょう…。