最近発達障害系の講演会や勉強会に参加していて、「自分と支援者との捉え方の違い」が結構あることに気づいた。
様々な講演会で疑問に思うことは「発達障害者自身の生きづらさへの疑問」と「今まで沢山の発達障害者と関わってきた支援者」との解釈の相違だ。
前者は「いち個人としての生きづらさ」後者は「相対的な生きづらさを客観視した対応」
で、何が問題かというと「後者のほうが圧倒的に自信に満ちている」という面倒くささ。
当事者から見ると大抵は「支援」とは名ばかりで、結局「定型発達者の世界に修正」していきましょう。というプロセスとなる。
「そのままでいいよ」なんて生ぬるいことは言えない。
だって「自立」が目標であるのなら、「生ぬるい」事が既に「迫害」になってしまうからだ。
この際、「どれだけ当事者目線になっているか」と問われると、「100%他人事」であることは否めない。だって「自分事」じゃないことを理解しようとしているわけだし。
こういうお仕事をされている方で、「長く携わっている人」ほど状況のアップデートができていない、または「上書きを避ける」
例えばニーチェの言葉で
「怪物と戦うものは、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい。長い間深淵を覗き込んでいると、深淵もまた君を覗き込む。」
というものがある。
そのものズバリだ。
例えば「支援者(指導者)が支援者(親や先生)」にアドバイスを送るなら「経験値」が物を言う。
しかし「支援者(先生)が当事者(障害者)」に物言うとき、それは「想像でしかない」。
これを「先生は沢山の障害者を見てきたから間違いない。」みたいな言い草の輩がとても多い。
確かに社会性を問われる際、「客観視」でしか正解はない。
ただ、勝手な憶測で「あなたはこうだから。」と、断言するなら私もお前を断言してやろうか?と、反発心が出てしまう。
例えばASDであれば「自閉スペクトラム症」「広汎性発達障害」「アスペルガー症候群」などが一緒くたでASDである。
目に見えている症状が全てではない上に、個体差もある。
広汎性発達障害なんかもっと広い。アスペルガー症候群なんか「症候群」だ。
「3つ合わせてASD!」3つどころじゃねぇだろう。と、ツッコミたい。
結局「頭の中のこと」であり、氷山モデルの底の底にある「問題点」になんか、本人はおろか他者には絶対に理解できない領域だと思っている。
それでも何か掘り下げたいと思うのなら、「一回バカになれ」と提言する。
見えている部分は「氷山の一角」であるため、事の真相部分に潜っていかないといけない。
そのためには「知識、経験、自身の見解」が全て「浮き具」であることを自覚しないとならない。
この「浮き具」を取り除かない限り、浅い見解で相手を判断しかねないのだ。
発達障害は同じ特性の集体だけでは無いため、個体差がありすぎて正解がない。
当事者も支援者(親や先生)も「なんでそうなる?」という疑問だらけ。
そういう人を相手に、浅い見解が「鶴の一声」であってはならない。
そんな「当事者との乖離」を感じつつ、「どこ行っても同じことしか話していないんだなー」と、虚しい気持ちで帰ってくる。
今の医学が「ここまで」なのか、今の時代での「見解がここまで」なのか、私には分からないが、「客観視して分析して方向性を変えてみる」というやり方もいいけど、そのチームに「本人」加えないと発展はないんじゃないかと感じた。
結局「定型発達者達の馴れ合い」(勝手に納得される)それに乗っかっていくしか生きるすべはないのか。
と、思うと私よりももっと大変な思いをしている発達障害の方々が不憫でならない。
もっというと、そんな輩に提言されて信じ切っている親や支援者が哀れでならない。
「支援」というと、支援者側が「障害者に合わせてあげている」様に思えるだろうが、その逆でもある。
こっちが「定型発達者」に合わせてあげているのだ。
先日聞いていた講習で、私が涙を流したのは「体験談、エピソード、対処法」などではない。「冒頭」だった。
「こういう場があったのに」と「何で当事者が聞いてんだ」(自分で申し込んだんだけどね)という周りとの疎外感と自責の念。
本当は40年前に「両親に聞いてほしかった」という悲しさ。
色んなものがしょうもない冒頭の挨拶のときに込み上げてきて、涙がボロボロ止まらなくなった。
これは精神的なものだけどね。
「当事者」って「コレ」なのだ。
まあ私はさておき、次男がどうだかわからないし、長女はガチASDだし。
私が普段気をつけて対応してきたことが、一般的な支援者がやっていることとも合致した事例もあって、「やはりこのやり方で間違いないのか」とは整合性が取れた。
他にも「私(当事者)なり」に子どもたちへの対応や受け答えを気をつけている部分がたくさんあるので、とりあえず自分なりにだが「続けよう」と思った。