先日次男と話しをしていたとき、グルグル回りだしたので(発達障害グレー)
「そんなに回ったらバターになっちゃうよ。」と言って笑った。
そうしたら次男に「何で?」
と言われたので「ちびくろサンボ」知らない?ときいたら「知らない。」と答えた。
これは小さな例だが、私は自分の知っていること=世の中全ての人が知っている。
と、勘違いしがちだ。
ASDは「自分の世界で生きている」ため、個々の認識が甘くて境界線が薄い。
落ち着いて考えればまだ7歳の次男。
私が読んでやっていなければ大抵「知らん」。
これがたまに分からなくなって、大人にも共感を求めてしまうことが多い。
大人の面倒くささは「は??」と、思っても「うんうん(とりあえず)」体面上合わせてくる。
合わせてこられると私は「このまま進めて良いのだな!?」と、勘違いするので、かなりコアな話になる。
挙げ句、最後に同調を求めた際「ごめん、よく知らなくて」とか苦笑いされると、空回りしていた過去の自分が恥ずかしくなるのだ。
独走し始めたのは自分なのに「早く言え。」と、怒りすら覚える。
今回の「ちびくろサンボ」は、人種差別の趣旨で一回廃盤になった。
でも後に再販が決定されていた気もする。うろ覚えだけど。
この「差別的主義」で消えたキャラクターをいくつか知っている。
サンリオの「たあ坊」「BIBINBA」「ハンギョドン」「サンボ&ハンナ」は発達障害、黒人差別など批判を受けて消滅。
ハンギョドンに関しては10数年前に復活するまで「魚と人間、どっちつかず」みたいな理由で消えたと聞いた。今では考えられないが、30年くらい前…と、考えれば納得がいく。
ハリーポッターの「魔法族かマグルか」みたいな論争であるが、これを問題視することこそハーフとかクウォーターに失礼な気が。
結局「問題」と受け止めてしまうから「問題=ダメなこと」みたいになるが、それって「黒人&発達障害=問題」みたいに受け止められる可能性だってある。
このキャラクター設定の際、作者にそんな差別的な意思があったのだろうか?
単純に受け止めたほうが歪んでいるのではないだろうか?
今もそうだが、「ゆるキャラ」ってたいていバカだ。
小さい子供の様に純粋で、何も知らない感じが「かわいい」という表現な場合もある。
これを「イコール発達障害」と繋げた側の方に悪意を感じるが、いかがだろう?
きっともっと「その物語」や「他に登場する誰かからのいじり」の方が事の本質だと思うのだが、何でも直接的に「イコール」で繋げてしまうと「消されたもの=厄介事」みたいで納得がいかない。
もう一つ言うと、「文化や歴史」から学ぶものってあると思う。
アパルトヘイトや差別という抜本的な問題を知るまでに、「こういう歴史もあった」という行為が悪であって、知ることは別に「悪ではない」と感じる。
知って戒めにすることで後世に繋げないことも学びだ。
とはいえ、矢面に立たされてしまうと「逃げるすべがない」現状、「排除」しか有効手段がないのだろう。
こうやって「きれいなものしか見せない世界」になったとして、その影響はどこに出るだろう?
例えばコロナが流行った際に「マスク生活&消毒」を徹底したため、コロナ収束後に「別の感染症」が爆発的に流行った。
この理由は「免疫力の低下」であった。
この「免疫」って菌やウィルスだけに言えるものだろうか?
人生は「繰り返し」である。
赤ちゃんから大人になるまでに「ブラッシュアップライフ」みたいに「転生5回目」とかで無い限り、全てが「ゼロに戻って始まる」。
ゼロから始まる人間に「清廉潔白」だけを見せて育てたら、それこそ「サイコパス」になりそう。
私の座右の銘に「温故知新」という言葉がある。古きを訪ね、新しきを知る。
様々な角度から学ぶことも教えてあげたほうがいいんじゃないかなーと、私は思う。