ただの主婦

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オリンピックと女性差別

呪われた東京オリンピックとはよく言うもので、よくぞまあ何度もしくる。

これこそ平将門の呪いかな。とか、もはや見えない力としか言いようがない。

 

それはそうとして、確実に人為的な女性差別発言で崩れる組織のもろさには「暇なんかい」と、突っ込みたくなる。

例えば私が失言に対して世界を震撼させるほどの「これは」と、いう破壊力がある人物を上げるとすれば、それは天皇陛下しかいない・・。

 

全てにおいてフェアであるオリンピック思想の軌道修正に、選手たちが翻弄されているのがなぜ分かりませんか。世界の着眼点が井戸端会議レベル。今じゃない。

 

何が悲しくて大会前後にこの手のくだらんコメントを方々のアスリートさんに頂くのだか、それこそ数字主義なその頭の悪さに気づいて欲しい。

 

そもそも世論にビビり、ジェンダーレスを意識しすぎて逆に特別視してはいないだろうか。自然体でいいんじゃない?と。差別という言葉で差別している。

 

例えばアメリカみたいな多国籍や、ワンピースみたいな獣人や、アナ雪みたいな個性なんかを認め合い、互いに手を取り合いいずれは地球を囲む構想とか、自然界においては不自然界極まりない。普通は弱肉強食のピラミッド。

 

男だから、女だからは最早肉体の話で輪廻転生でさえ運だし、実際あるかどうかもわからんし。どうにもならない。

女性が家事。で怒るのなら、力仕事は男性。ゴミ捨てはパパの仕事。などという言葉には誰も突っ込まないのか。いや、正直どうでもいいが。

 

何を言いたいかというと、適材適所で良くないか。

いくら男女平等でも、肉体的に男性有利な作業もあるし、脳幹の太さを見ても女性の方がマルチタスクに長けている。

 

この論争、余りにもエキサイトしすぎると、男女分けたスポーツが混合になり、優劣付けず並んでゴールし、帰りには参加記念の金メダルを全選手だけではなく、ボラにも配られる究極の平等オリンピック時代が来るのではないだろうか。

 

それに気になるのは女性蔑視や差別発言には即レスのわりに、男性蔑視への論争はあまり拝見しない。

女性側に立つ輩が多数な時点でそれはレディーファーストという差別ではないのか?

いや、都合のいいことは違うのか?

これが「文化だから」で済まされたら、日本の男性を立て女性は一歩下がる所作も日本の成り立ちで継がれた文化ではないのか。とか言い始めたこの論争に終わりはあるのか?

もうジェントルマンはドアなんか開けなくていいから、女性も気を遣ったらどうか。

 

何だか具体的に怒ってばかりで、本質がどこなのかその線引きがふんわり不透明すぎ。

 

もはや個人の温度差で判断されているだけではないのか。それこそ女性的な怒りの表現のようだが・・笑わない24時間みたいにケツバットで済ましませんか。

 

それよりも確定申告の時期なので「主婦は職業ですか?」論争をもっと激化して欲しい。

 

最近男女間を意識したのか、職業欄に「専業主婦・主夫」という表記を見かけるが正直笑止。

この右の「職業」と称したヒモに堂々と丸を付けられる先進的な男性はどの面下げて存在するのだろう。

そしてこの表記こそいつまでスルーされていくのだろう。看護婦も看護師になったのに。

 

出産を経験しているため、この件の男の無力さは痛感している。

背中をさすってあげる、手を握ってあげる、呼吸法を・・バカめ!

 

それこそ平等を誇示したいのなら、こっちは産むから働いてくれ。男女分担だ分担。

何でもかんでも大陸に倣わず、島国の文化にも敬意は持てないのだろうか。

うちはうち。よそはよそ。

 

そもそも分母が違うのに、グローバル化な思想を適したとして出産率がどうなるか想像つかないのだろうか。今や日本人は絶滅危惧種に片足突っ込んだと海外メディアに言われているのに気付かないのかな。

 

そもそも女性が家を守り、男性は狩猟民族であると位置づけられたのは、生物学的に分担された役割であり、オスのタツノオトシゴ皇帝ペンギンが卵を温めているからと言って、それを「イクメン」とか言い出したバカはどこから湧いて出たのだろうか。

 

突っ込みどころはそこではなく、白人至上主義やアパルトヘイトなどと相互した表現や考え方の再構築ではないのだろうか。

 

もう言葉尻とらえては残さず突っ込んで、寄ってたかって付け焼刃の正義をかざすの辞めようや。視野が狭い。

 

○○抗議活動はみんなで手をかざして記念撮影したり、一日白い服着たり、パフォーマンスチックに「やった感」出してる程度で、バケツチャレンジ程話題性にも欠けた。

 

困ったときはジャスティンビーバーにツイートしてもらえばいいのに。

 

性で悩む人、障害を持つ人、持病で苦しむ人などのモヤモヤは、みんな同じではないだろうか。「完全体」という者への憧れというか。

かくゆう私は生まれつき左目がよく見えない。こう書くと完全体の皆さんからの訴追が手のひらを返したように和らぐ気がして、それこそ特別視だと感じるのだが、実際そうで。

 

左側の感覚が右よりも研ぎ澄まされている感があり、反射神経には自信がある。

落ちそうなものは落ちる前に取れるし、キャッチボールが得意だ。ちょっと心眼が開かれたような特別感がある。

超未熟児だったため、細かく言うともう少し色々面倒があるのだが、だから何。

 

これを周りからフォローされ続けていたら、私は周りに依存し一生自立できずに不完全さを呪い、卑屈に陥る。そしてメディアに憚る差別用語に歯をむき出し、気が済むまで訴追するだろう。だって私は守られているんだもん。不満を噴出することに尽力できるのだ。

 

で、良いわけないが、こんな感じじゃない?今。ニュアンスわかるかな。

 

私が昔、心底感動したことがあった。

長女が幼稚園生の頃。クラスのA君には身体的な障害があり、手足の関節が曲がったまま固定器具を付けて生活をしていた。

 

担任の先生はずっと同じ。

この子を特別視せず、給食が遅くても待たずに次のお遊戯に行ってしまったり、工作でも片付けも一切手を貸さなかった。

 

私は当時、最初の子どもの初めての幼稚園で、ことの真意がわからないほど人間力は低かった。

そしてこれはこの担任の手抜きだと、見かけるたびにイラっとして納得がいかなかった。

 

A君は誰もいなくなった教室で一人給食を食べたり、ひとりで階段を上ったり。

「困った人がいたらみんなで助けてあげましょう!」ではないのか?定規の通りに習ったフレーズで正当化し、理解はできなかった。

 

そして年長、運動会でのクラスリレーの練習の時に事件が勃発。

長女のクラスはA君の番で周回遅れの大差が付き、大敗を連発してしまったのだ。

もう絶対勝てない・・。

 

そう思った幼児の言葉は辛辣で、平気で障害のせいにもするし排除志向の子どもも当然いたらしい。

 

そんな中、ついに先生がクラスの子に一石を投じた。

 

「じゃあ作戦をたてよう」

 

そこでみんなの空気が変わったそうだ。

現状は変えられない。普通じゃ絶対かなわない。A君も込みで勝つ方法は何かないか?

 

もう、クイズ大会だ。みんなの思考が変わった。

 

結果、足の速い子でA君を挟む順番に決まり、本番。

第一走者、第二、第三とアンカーレベルの俊足が走りぬき、普通は遅い子が最初に・・という常識を塗り替えた。

そしてA君。予想通りどんどん抜かれて最初の大差が無くなっていった。でもA君は足を引きずりながらも転ばずに最後まで走った。

 

しかしA君が次の走者にバトンを渡す頃には最下位になり、ここまでか・・という何とも言えない空気が流れたのを覚えている。

溜息というか・・大人ってどうしてこう・・台無しにしがちなんだろう。まだ終わってないのに!

 

その時A君の次の走者がとんでもない俊足を見せた。というか、A君をなめてかかった他のクラスが、クラスの鈍足をA君の順番にぶつけてきていたのだ。

 

「うおっ・・」少しづつ沸き立つ会場。どんどん追いつく。そしてアンカー!

 

最後の走者でなんと長女のクラスは、たった一歩ほどの僅差で逆転勝利を収めた。

散々負け続けたこのクラスはこれが初勝利だったそうだ。

 

この出来事の後、担任が後日談で詳細を教えてくれた。

 

そうか。こういうことか。

自分がいかに無知で浅い人間だと気付いた。

 

実はもっともっと根深いところでA君と担任は繋がっていた。

だって、その間親が一切出てこなかったのだから。

 

その当事者たちはきちんと理解し合い、担任もA君から目をそらしたのではなく、他の子どもたちにも「差別」を植え付けず、柔軟な思考で共存を学ばせた。

 

この場合の「優しさ」とは強要するものでも、自分の一方的な尺度でもない。

本人にやらせること、乗り越えさせること、達成感を自分でつかみ取ること。

 

すなわち「自信」これで無敵になれるのだ。

 

 

後日談だがこの8年後、長男の在園中に担任のお子さんにも障害があることを初めて知ったのだった。

 

ということだ。

 

外野がぬかすの辞めようぜ。