今日は某所で行われていた「コミュニケーション講座」へ行ってきた。
講習を聞くだけかな−なんて思っていたら、しっかりロールプレイングがあり、初見から障害を明かすというよくわからない流れになった。
基本ASDは「本音と建前」が伝わりづらく、「あいまい」が苦手だ。
しかも自己啓発を兼ねて参加しているのに、嘘なんか付けるか。
みたいな「融通の効かなさ」も相成って、聞かれることやミッションを素直に答えていたらカミングアウト祭りみたいになってしまった。
もちろん周りの皆様は上手にこなしている…。嘘かホントかわからないが、当たり障りなく促せる。
私は自己紹介の時点でシクッていて、「私は〇〇です。」と、自己紹介してください。
の、ミッションに「私は自閉スペクトラムです。」と素直に言ってしまった。ハメられた…。
他に無いか自分!!と、一瞬イラッとしたのは、周りの対応が二極化した瞬間を目の当たりにしたからだった。
4名でのグループワークだったのだが、初対面のときはみんな前のめりになって「相手の話を聞こう。」とする。しかし、興味がなくなった途端背もたれにもたれる。
そんな反応を見せたおっさんが一人いたのだ。
4名のうち2名は私の話を聞いてくれて、そのうちの1名なんかもっと前のめりになった。
しかしそのおっさんだけ「自閉症」のワードが出た途端、ため息を付いてのけぞった。
隊、離脱である。
挙げ句に近場で知り合いを見つけたらしく、私の自己紹介中に席を立った。
てめぇセミナーでもそれやるか?
本当にできねぇヤツが来ているんだなとイラッとした。
でもこういう反応って自分でもわかる。
私は「自分はまとも」みたいに無自覚で生きてきた。
前にも書いたが「実は障害でした。」と、言われ、ランクがひとつ下がったような負の錯覚を感じた。
そして同時に腑に落ちた。
この表現には差別があるので、表記すると申し訳ないのだが事実、自分の気持ちを表すとコレだった。
そしてこの感じは自分だけでなく、「他人も感じるのだな。」これを本当に痛感する。
例えば自分でも同じ空間にヘルプマークの方がいると、ちょっとピリッとする。
自分も付けているのに。
ブログでも精神を病んでしまった方の内容は、引っ張られてしまうので大変つらい。
これってザックリ差別だと思う。
私が今まで付き合ってきた人が、後から「実は障がい者」と知った場合、「元から障がい者」と知って付き合う人たち。
とにかくここに「対等」は無い。何かしらの見えない線引が、スーッと現れる。
「そうやってアピールして、融通効かせてくれと望んでいやしない?」うん、無くもない。ただ、そういう感情は「普通」だと思う。
実際、どうにもならないときに直面をして魂を削ってきたからだ。
しかし最近、この「個々の風当たり」を察知することが多く、結構その度に疲弊する。
ネガティブ要素が残りやすく、グルグル思考でループしてしまうからだ。
そんなクソジジィもう二度と合わないだろ!と、割り切れれば良いのだが、最悪なことに次男の学校の2年生の担任だった…なんでこんなところにいるのやら…。
そのおっさんは始終落ち着きがなく、手を組み足を組み。
後ろに伸びては前にうなだれ。
セミナーではアンガーマネジメントもレクチャーしてくれているのに、視界に入る目下のコイツにイライラしていた。
「退席すべき!」と。
最近、無料のセミナーや講習に積極的に参加している。
自分が人との関わり合いや対応が上手くできないことは自覚していたし、とにかくコミュニケーションが超苦手。何なら無くて良い。
でも、その必要性だけは凄く重要だと思っているし、今までも「脳的にできない。」事も、回り道や変化球でこなしてきた。
なのでもっと「他人のやり方」を学んでみたくて、参加している。
でも、いかんせん障がいを知られると「対等」でなくなってしまうわけで、対等でないなら自分勝手に生きていたい…(欲)
「言わない」ということは、私が障がいと向かい合って乗り越えようと努力している事を隠すということで、なんだか視点が変わってしまう。
しかしどうやってもこういう輩はいるわけだから、こういう苦手な人を眼中から削除するやり方を自身で見つけて解決して行かないとならんのだ。
誰しも人と合わせて生きている。
その心は「妥協と惰性です。」と、しっかり答えてきた。
これが正解だと思うとなんか幸せじゃない気もするが、正直表面上だけ取り繕える人は利口だと思う。
まだまだ勉強が必要だな…と、しみじみ噛み締めた。