先日ドラえもんの「日本創世記」の映画を車で見ていた。
その中のエピソードで、「チュン子」という虫星人がお爺さんに助けられる物語がある。
お爺さんはチュン子を自宅で療養させようとするが、お婆さんに拒否られる。
この一連の流れを見ていて、次男は「お婆さんは意地悪な人だね。チュン子が可哀想。」と言った。
主人は「急に大きな生き物を連れてこられたら、怖くてびっくりしちゃうよ。」と言った。
そして長男「よくわかんないものを拾う意味がわからない。」
わかるだろうか。
次男はおじいさん目線。
主人はおばあさん目線。
長男は自分目線。
家族でこのザマだ。
じゃあ私は?
チュン子を目視してスルー。これまた論外だ。
しかし、そもそもそういう人間というわけではなく、実はすぐ助けがちだった。
ご年配と階段と大荷物、または横断歩道、または公共機関のイス。
大抵声をかけてきた。
でも前にも書いたが、助けて優しくしすぎたのか依存される時事が多発したのだ。
結局自分が傷ついたり。
そこで学んだ。
「手ぇ出すんなら仕舞までやれ!」…かま爺のあの言葉だ…。
自分に余裕がなかったり、相手にキチンと向かい合えないのなら自分本位に関わるものではないのだ。
面倒見きれないのに手を出したり、優しくしといて相手を翻弄してしまうのはただの自己満足な偽善者だ。
そもそも私はコミュ障。
打破したくて起業して、様々な方と関わるようになった。
今までも無理をしつつ、荒療治の名目で肌で学んでいる。
だから「人に優しく」がどれほど無責任であるかも身をもって知った。
もちろん諸々の事情を理解しての最終持論。
とはいえ完全に面倒事に背を向けた訳では無いが、向かい合うからには覚悟するべきだと思った。
やはり他人に優しくするにはまず自分を大切にして、自分が心の余裕を持てるように。
色々経験した上で「自分主義」の深さに気づく。
初っ端からこの領域で物事を判断すると、ただの事なかれ主義というか、無関心者だけどね。
どちらにせよ「決心」の世界なので、はたから見れば一色たんだが。
一つの出来事でも受け取り方が全然違う。家族間でもだ。
「伝え方」の難しさを、ドラえもんきっかけで学んだ。