picardのパンケーキ。
これで500円ちょっとくらいだから、外でモーニング食べたほうが安いな…。
一見おシャンだが、グラスもカトラリーも100均。皿はIKEA。
映り込んでて一番高いのは、家族のイニシャルで揃えたハワイのマグカップだ。
さて、先日読んだブログで面白い内容があった。
文章を読むとき「声」として頭の中で読んでいますか?というお話。
「声である人」と「無機質な文章を目で追う人」など、実は色々いるそうだ。
脳内のことなので、改めて焦点を当てると面白い。みんな私と同じだと思っていた。
私は例に漏れず「声である人」なので、文章も「口言葉」。
例えば小説を読んでいるとき、「誰かが朗読しているように文章を読んだり」会話である「」内の文字を「頭の中で”人の声”または”男女”などの区別」を勝手に付けて音読しているだろうか。
「作者自身が黙々と朗読しているように想像する」人もいるし、「役柄」を付ける人もいる。「見てるだけ」の人など、「色々いる」ということを知らなかった。
これって無意識の行為だが、最近の「ACのCM」でも似たようなことをやっていた。
CMを知らない方は下記の問題に答えてみてほしい。
①赤ちゃんが泣いている
「よしよし…大丈夫?おなかすいたのかな?」
②小学校
「将来の夢はパイロットです。」
③会社
「今季の目標を掲げるに際し…」
ざっと例文なのでCMとは大分違うが、この①②③において”頭の中では”「男女どちらの声で読んでいた」だろうか。
先入観ではあるが、大抵は「①女性②男の子③男性」ではないだろうか。
こうやって勝手に想像してしまう行為が、心理的差別だと言いたいのか…AC…??というCMなのだが、「自身の無意識」が露呈されるので面白い。
しかし、こんな個人の深層心理から改革するつもりはねぇよなぁ…?ジェンダーレス。
と、ちょっと怖い気もする。それは洗脳だ。
頭の中よりも「出す部分」じゃないだろうか。
話は戻るが、こういう勝手な個人の「先入観」により物事を把握している場合があるわけで、「自分のことでも知らないもんだな」と感じた。
そう考えると世の中にある「文章の捉え方」って同じものを見せても一人ひとり相当違うのかも知れない。
子供の頃、「写生会」があったときも感じたが「お前…そこから描くの!!??」みたいな信じられない視点の子とかいた。
自身もASDなので「斜め目線」(天邪鬼)だと散々揶揄された。
同級生で割と同じ環境化で成長して、同じクラスで同じ題目で指定されたのにもかかわらず「興味がある場所」が全く違うのだ。
当たり前かもしれないけど、「捉え方の差」って想像の域だから意識してても気づかない。これって家族でも同じ。
自分の解釈だが「人は個人個人見えない袋に入っているもの」だと思っている。
その「袋」は華美なもの、シンプル、透明、真っ黒など様々。
これが社会性であって、「外に出している自分」。
その袋の中には「本来の自分」が入っていて、中には「自分以外決して入れない」。
どんなに親しくても、家族でも夫婦でも双子でも入れない部分「自我」。
この「袋の中身」部分を共有しようというのがコミュニケーションだと思われがちだが、実際は「誰も袋から出ることはない」と認識している。
つまり人と人を取り持つ行為なんか所詮「外っ辛だけ」。
という虚しい考え。世捨て人まっしぐらだ。
一つの文章にしても、腹立たしく捉える人、平和的な人、意図を感じない人など解釈は人それぞれだ。
「文を読む行為」だけでも脳内でのやり方が異なっているのであれば、「人に伝えることの難しさ」って相当なのだろう。
メラビアンの法則では「言語情報」なんか7%くらいしか伝わらないという。
聴覚(音、声色)で40%視覚で50%程度。
もう「伝わってない」と覚悟して話し始めるか、ハナから図解したほうが良いのかも知れない。
挙げ句、視覚分野でもある読書でも解釈違いがあるわけだ。
こんな状態で「仲良し」って成立するんだろうか…。
相当どちらかが我慢しているだけか、勘違いな気がしてきた。
こういう「理屈」で他人を観察すると、やることなすこと「結局自分の良いように」まとめているのがわかってしまう。
ママ友って一過性なのでそれが顕著に出る…だから進化しないんだろうな…。
って結局それ。