ただの主婦

子育て、日々の事、時事、思想、ただの持論、旦那一回り年下

選ばせているようで否定し、誘導してしまう現象

私はちょっといい家の一人っ子だ。

 

でも10代で家を出て、子育ても頼らず。

一人娘だから仕方なく親とも関わろうと努力している‥が、関係は良くない。

 

あまり詳しくは書けないが、私の両親は簡単に言うと「孤独」だ。

 

人付き合いもなく、親戚も無く、友達もいない。

母はかろうじて社交的だったのだけど、コロナ禍になり老人会もなくなり、自粛しているうちに父親に取り込まれた。

 

同調心理だろうか。

孤独が長いと、世界がそこで完結してしまう。

だからその先や他の意見が届きにくい。

 

すると更に孤立する。負の連鎖だ。

 

この孤独感情が強い人は、無意識なんだろうが他人を取り込みたがる。

 

自分を分かってほしい、自分を好きになってほしい。

が、お小遣いやプレゼント攻撃となる。

 

お店をやっていて何人ものお年寄りが頻繁にプレゼントを持ってきてくれたので気づいた。

うちの親もこれだ。

 

プレゼントを渡されると喜ぶ、喜ぶ姿を見て自分が満足したいだけ。

それはプレゼントやお金に対してのアクションで、自分に向けられたものではないのに錯覚してしまう。

 

私はこれを素直に受け取れず、困惑して嫌がられたり、断って嫌われたりもした。

 

寂しいけど断り続けるしかない。

差し出された手を引っ込めろ!って、本当に辛い。

 

私もお友達がいないし、寂しい気持ちがわかる。

でも、ものやお金はダメなのだ。

 

そんな事に最初は気づかず、毎日来てくれるおばあちゃんがいた。

 

毎日手土産でタオルとかお菓子をくれた。

それがパンになり、お弁当になり、最終的に子どもたちの日用品となった。

 

毎回「いいよ〜」って軽く断っていたのが失敗で、ある時ヘルパーさんが来て「あの方、毎日外食するほどお金がないの」と、言われてしまった。

 

私は汚いので保身で言うが、私は何も悪くない。

 

通常に営業して、お客さんとしてきてくれていただけ。

お客さんの身の上とか、いちいち知らない。

プレゼントも手土産も勝手に渡してきた。

 

 

で、何か分からなくなってめっちゃ泣いた。

 

 

私はおばあちゃんが来てくれて、話せて嬉しかった。

お友達だと思っていたけど、いつの間にか違っていた。

 

それからはおばあちゃんのためを信じてご好意を徹底的に断ったが、最後は「薄情者!」と、言われて来なくなった。

 

 

で、めっちゃ泣いた。

 

 

ただ、仲良くしたかった。

 

断るのはその人のためだと思った。

 

‥間違っていたのかな。苦しい。

 

 

このあともお金持ちのおばあちゃんが、毎回お金を包んで置いていくとか、近所の会長さんがお裾分けを頻繁にくれた。

 

‥これを素直のもらうのがとんでもなく苦痛で、「ありがとう」でいいんだよ。

 

って言われてもできなくて、みんな断ったら嫌われた。

 

 

私がなにかしたのだろうか。

 なんか見下しやすい人間に見えるのかな。

 

 

逆に好意を受けたとして、断る選択肢は無いのだろうか。

 

もちろん、誕生日とかは別だよ。

でも毎日の手土産や、包んだお金はいらん‥

 

たまたまそれがない時に「今日は手ぶらでごめんね」が、意味不明。

 

って感じで素直になれない自分がいた。

結果私も孤立した。

 

私はお客さんが来てくれるのが嬉しい。

話ができたらなお楽しい。

 

ものを貰えるから待っているのではなく、その人たちに会えることだけでいい。

 

それがどうしてもうまく伝わらず、相手のあげたい衝動を抑え込むばかりでお互いのわだかまりになってしまう。

 

思えば両親も孫にお金をすぐ渡す。

寂しい人は自分を認めてもらうのに上位に立とうとして信者を取り込む。

 

前澤友作の様に‥てか、奇しくも「友、作る」‥。

 

でもこれは相手の意思はお金に向いているだけで、自分を好きなわけではない。

 

子供たちは電車で勝手に行けるようになると、月イチで会いにいく‥というか、お小遣いを貰いに行く。

 

これで毎月孫に会える。

と、喜ぶ親と、お小遣いもらって帰ってくるだけの孫。

これでいいのかと考えてしまう。

 

 

たまに私と会うと「お前たちは金ばっかり貰いに来る」とか言われる。

 

 

くれ、とか言ったことないが。

むしろそれを泳がせているのは私からの温情だ。

 

 

そうだな。今の状態は金の切れ目が縁の切れ目だしな。

 

 

この関係が辛い。

人に話すと自慢話のように聞こえるらしくて、あまり公言できずに抱えていた。

 

なんか遠回しに「自分はものをもらえるほど魅力があるみたいで困るわ〜↑」

って感じに聞こえるのだろう。

 

ちげぇよ。

 

普通でいい。普通で良かった。

 

世間話をして、一緒に食材選んで台所に立って。

ご飯作って教わって。

 

家族で食卓を囲んで談笑して、残した家事を何となしにやってあげて「また来るねー」で帰る。

 

 

で、いい‥

 

 

他人のアクションに対し、「NO!」という権利は誰にでもある。

 

私は思えばこれが通らない環境であった気もする。

 

例えば「何食べたい?」と、聞かれ「ラーメンがいい!」という。

すると母は「ラーメン、しょっぱいし油っこくて体に悪いよ。お蕎麦にしよう。」

と、聞いておきながら私の意見を全否定し、自分の意見に誘導させる。

 

結果そば食ってる。

 

て事が殆どだった。‥全部。

 

で、これをやられ続けるとどうでも良くなり「なんでもいい」と言うと「あなたはいつもそうなんだから〜」と、人格まで全否定される。

 

こういうやり取り、みんなも無意識のうちにやってはいないだろうか。

 

前も書いたが

女性が服選びでやりがち。

 

どっちがいい?って聞いてきたところで自分の意志は決まっている。ってやつ。

 

私はこれを母から受け、それだけならあるある話だが、父親からはド直球で「お前はどうせできない」と、呪文のように否定され育った。

 

これに気づかせてくれたのは長女だった。

 

ある時言ったのだ。

「どうせママが選ぶじゃん」と。

 

これが言えなかった。

 

私は両親にこれが言える家庭では無かったのだ。

知らないうちにNOが言えず、絶対的に服従していた。

 

って事に気づかず、私も子どもに同じことをしていたのだった。

 

‥このままでは私を量産してしまう‥と、気づいてからはどんな子供の意見も尊重した。

 

分かりやすいのは七五三などの写真での子供の服装。

 

長女のときは娘の意見を無視して私が最終的に決定するので、全体的にしっくりまとまる。

色合いもよく、デザインも高級志向だ。

 

しかし完全に子供の意見を取り入れ、子供が選んだ服をそのままチョイスした次女以降は兄弟の個性が光るまとまりの無い家族写真になった。

 

 

で、いいかな。と、思った。

 

 

今でも写真を見返すと笑顔になれる。

 

「このときあなたはこれを選んだのよーチンドン屋さんみたいー」とか。

‥軽くディスっているな。

 

そうやって相手の気持ちを考え尊重するって大切なんだと学んだ。

 

 

てことは、やはりプレゼントは「ありがとう」と、もらうべきなのか。

 

でもそこに私の気持ちはあるのだろうか。

 

私にはNOの権利もある。

嫌われてもなお、この依存行動にはNOを貫きたい‥ごめんなさい。

 

 

 

きっといつか、ものやお金が無くても信じ合える関係がきづける時が来るって、漠然と待とう。

 

 

 

きっとそれがいい。