先日息子の習い事待ちでカフェにいた。
隣で話している方が「発達障害、ギフテッド、ADHD」などのワードを出していたので、耳をダンボにしていた。
どうやらIQ110超えのASDだそうで、某有名大学でちょっとしたお仕事をされている方だそうだ。
テストにもよるけどIQ110超えは一般より上で、東大生より低い。
付け加えれば私の就学前のIQテストの結果がIQ110である。
どうとも取れない一般枠なのだが、なんだか自信満々だったので聞いていた。
彼いわく「IQが20違うと話が噛み合わないんだよね。」とか「自分は天才肌ASDだから…」「常に全体像を捉えがち…」などなど。
…おや…デジャブだ…と、思ったら、自分がASDと診断された際に検索しまくったサイトの引用ばかりだった。
…こやつエセか…??
一瞬天才願望の強いバカかと思ったけど、飲み込んだ。
誰しも「自分」って主人公なわけで、銃弾も当たらない気がする。とか、エレベーターが落ちた際、自分だけジャンプして助かる。
みたいな妄想を一度くらいしたと思う。
時が来れば皆平等だろうが、こういう「自分は特別ではないか」みたいな感情は多国籍が集まるアメリカでは特に強い。
アイアンマンやスパイダーマンも金を持て余したオヤジと、うだつの上がらない学生という平凡からの奇跡だ。
ああいうヒーロー物は、悪役も十分すごいけどなぁと思うけど。
バイキンマンだって全部自分で作っちゃうわけだし。
この「誰しも個性があって特別な存在」思考から、日本のヒーローアカデミアが爆発的に流行ったとも言われていた。
つまり「人と違う」という個性を重んじることは、「自分」と向き合い大切にしている証で良いことだとは思う。
ただ、その「個性の押し売り」みたいに自分で虚栄を張るのは見苦しいなと思った。
あくまでも自分への評価は他人がするものだ。
自分で自分を褒めていたら、それは自画自賛である。
私も「もしかして特別な能力があるかも?」って努力もしないで錯覚したことはあった。
「発達障害ですね。」と、言われたときも「全体の5%が持つ脳」とざっくり説明されて、一瞬「天才!?」とキラキラしたが、実際何の「全体」か、何から見ての「5%」だかは怖くて掘り下げられなかった。
だって良くて「天才」とか言われても、現状は天才とは程遠い生活(仕事)だし、「アカンですね。」と、言われたらアイデンティティがぶっ壊れる。
どちらにせよ「40年かけて出来上がっちゃった自分」にあと付けされても、後の祭り感は否めなかった。
ただ、今までの私を知っている友達に「実はASDだった。」とカミングアウトをした方がひとりいる。
本当は今更言って、関係性がおかしくなったら嫌だな。と、「言う必要性」がなければいいかー。程度に思っていた。
しかし、そのお友達に限っては結構初期の段階で「娘がADHDだから迷惑をかけてしまうかも…」的なお話をされていた。
私はそのことを知る前から、竹を割ったような性格の娘さんが大好きだったし、知ってからも「あそー」くらい気持ちは変わらなかった。
でも私自身が「後付のASD」みたいになってみて、「公言することの勇気」を凄く考えさせられた。
きっと友達もいろんな葛藤があってカミングアウトをしてくれたんだな…と、当事者の気持ちがようやくわかった。
私もそれを受けて「素直にならねばフェアじゃない!」みたいな、勝手な責任感が湧き上がり、ある日書類を見せて、「私もコレなんだ。」と正体を明かしたのだった。
友達は「全然分からなかった。」と驚いていた。
長年野生のASDであったため、世間から頭を押さえ続けられていた私は、十分シャバとの付き合いは熟知している…。
人の皮を隠れ蓑にして、衝動を抑えることでなんとか「普通ぶってる」けど、心は障害持ちなわけで「できてる」わけではないんだよと。
そんなニュアンスで話をしていた。
他にも二次障害がモリモリあるけど、これは通院でどうにかなりそうなんでわざわざ伝えなかった。
でも、一般の素直な気持ちで考えると「障害者→未知の生物」という感覚は否めない。
常識も一般論も通じず、自分の世界だけで生きている人。
どう取っ付けば正解なのかわからない人。
自分の行為が裏目に出てしまうのでは。という不安は健常者にでもある。
ただでさえ世間に出て上司とか先輩とか付き合いがある中、第三の選択肢が登場したら正直ビビる。
ASDでも様々だが一見「普通」に見える人ほど分かりづらい。
なんか気を使ってほしいわけではないのだけど、「自分と違う人」を警戒してしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
そう考えるとなんだか「加害者側はあなた」みたいな見えないレッテルを、カミングアウトをしたことで背負ってしまうのでは。
という、変な恐怖感を感じた。
私はまだ、コソコソ生きるしか無いのかなと。
結局現状維持だな。と、何も変わらないことがもどかしく思えた。