昔進められて参加したのだが、グループカウンセリング、自助グループの意味が未だにわからない。
前者は解決法も模索するが、後者は大抵「言いっぱなし」。
言いっぱなしでいいなら、文章化したほうが再分析できるし変化も目に見える。
「自身を客観視して気づきを得る」のならば、書けよ。と思う。
そもそも今はSNSがあるのだから「吐き出す」という手段はリアルでなくてもできるのでは。と思う。
グループワークにお金を払って参加できるのなら、社会性はほとんど取り戻している気もする。
起き上がれなくて何年も家から出られない叔母を見ているので、現場に行くと「身支度できてここまで来られるなら大丈夫だよ」って、言いたくなる。
でも自身も「行ってみては」と言われてるのだから、アカンのだろうが…。
それにしてもオシャレさんだったり、流行りの何かを身に着けているのを見ると、「かえれ」とまで思ってしまう。
なんでそう思ったかと言うと、「マイナスしか無いな」と思えたからだ。
自分にではなく、この集まりに。
自分の体験では「家から出られるか否か」しか基準がなかった。
なので、いわゆる「現在進行系でアカン感じですぅ〜」みたいな事を人前で堂々と言って、共感を得ようとする(学生時代に1人はいたような)グレーな輩が大嫌いだった。
「白か!黒か!」
それが私の世界だった。
なので、どうもそういう場に行くと「不幸自慢大会」が始まってすごく不快。
みんな人の話よりも「私よりは大丈夫よ!」と自分中心に物事を考え、的はずれな励ましをしたり、元より全く興味がない人もいた。
実際その場にいて、「だからこの人たちは病気なんだ」と、理解することもできなかったし、相手を理解することができるならそもそも行かない。
相手を理解できない同士が集まって「理解を深めましょう」とか、主催者バカなんだろうか。
それこそ進行役のカウンセラーにさえ、「この偽善者め」くらい思っていた。
ニーチェの言葉でも「怪物と戦うものは、その際自分が怪物にならぬよう…」という言葉があり、カウンセラーだって私達以上に病の方々と対話をしているのだから、自分がぶっ壊れていても気づかないのでは…と、変な憶測も相成ってとにかく誰の言葉も届かなかった。
むしろ「私が一番まともなのでは!」くらい思った。
(これが病だったんだろうか)
そして帰り際には、「ガチな疾患の方」から上手に症状を頂いてしまい(もともと引っ張られやすい)来たときより帰るときのほうが疲弊しきっていた。
(こっちが病な気も)
この状態…治療の過程として正しい状態なんだろうか…。
「持続することで徐々に…」とか、よく言われるが「持続ができない白黒思考」はどう捉えればよいのだ。
これでも我慢して何度か通い続ければ、何か霧も晴れるのだろうか。
毒気を抜かれたら、顔が能面になりそうだ。
…正直、良くなるという確約が特に無く、体感も「疲弊」するので行きたくにゃい。
行きたくにゃいなら、私は「治療行為から逃げている」のだろうか。
この状態が「まとも」でないなら、私は何を持ってアイデンティティを築けばよいのだ!!
もう他者からのアドバイスが憂鬱でならない。
どうしても精神疾患があるけれど、「ある程度の社会性はある」という私みたいなタイプは他人に「アナタより私のほうが辛い」を押し付けがちだ。
よくあるのは出会い頭の「アナタ何級ですか?」(手帳の等級)
…スイミングスクールか。
1級が来るわけ無いから2か3だよ。
もう、2か3なんかどんぐりの背比べだよ。
自分もそういう「考え」だけはしがちなので、意識をしてあえて口には出さないようにしている。
それだけその方が苦しい思いをして、「今がある」のは漠然と理解できるのだが、自身も苦しかったので「受け入れる隙がない」。
なので、他人のエピソードに対しその上を行くエピソードを投げかけ、結果お互い自滅してしまうことが目に見える。
リアタイで同じ様な苦しみに共感して、自身を客観視をすることほど苦手なことはない。
ASDにとっても「自分は自分」であるからだ。
一旦持ち帰れば落ち着いて分析も可能だが、その場での対処は人間なので感情にも左右される。
結局「あの人より自分はマシ」と、変な自信をつけるだけで抜本的な解決ですら無い。
他人を卑下することで自身を保つことが目的ではないはずだ。
とどのつまり「得られるものがない」という結論。
この考えは「普通」ではないのだろうか。
ASD&パーソナリティ障害であるからこの考えなのだろうか。
どう考えても「着地点」が見えない。
私は何を目指して治療のためあがいているのか。
というか、これら思考の何がおかしいのか。
それがわからないからおかしいのか??
…おかしい???ってなんだ??
個性じゃダメなんかなぁ…。