子どもたちの小さい頃のエピソードを、20年以上前のブログでも語っていたが消えてしまった。
思い返えしたときには書いてみよう。
我が家の長女26歳は私と同じASDである。
今日はこの子のエピソード。
彼女が1歳位の頃、私のところに来て「ん」と鼻を見せてきたことがある。
鼻から一本のスパゲティが出ていた…。
「なにこれ!」引き抜くと、彼女はまたどこかへ消えて数分後に「ん」と鼻を突き出す。
スパゲティが…二本!増えとるがな!
鼻のスパゲティを引っこ抜くと、またどこかへ消えていくので着いて行った。
台所にある冷蔵庫がかすかに開いていて、長女はその前にちょこんと座った。
すると冷蔵庫を開けて「残り物のスパゲティ」を鼻に詰め始めた。
「コラ!」と、怒った。
なんで詰めたかは分からないが、「鼻から出る」といえば「スパゲティ」か「牛乳」だ。
大豆とか誤って鼻に詰めてしまい(何でや)ふやけて取れなくなった子も居たので、「子供って目を話すと鼻にスパゲティとか詰めちゃうのか!?」と、学んだ21歳の私だった。
彼女は例に漏れず言葉が遅く、幼稚園の年中でもお友達と会話が成り立たないこともあった。
そんな彼女は二年制の公立幼稚園に入園したとき、お友達の名前が覚えられなかった。
「今日は誰と遊んだの?」と、聞いたら黙って絵を書いて教えてくれた。
顔や名前は覚えていないのだけど、「服装」を完全に覚えていて小さなロゴやキャラクターまで描いて「この子」と、教えてくれた。
…しかし翌日には全員漏れ無く着替えてくる。
彼女的には「毎日はじめまして」がしばらく続いていたっぽいが、夏を超えた頃には普通に名前も顔も覚えていた。
長女はものすごい「がんばりやさん」で、周りと比べて自分が「できてない」を理解すると、地道に練習をして周りよりも上に行ってしまうことが多かった。
「誰かと切磋琢磨」するわけでもなく、とにかく「ひとりで黙々と」何事もこなしていた。
なので苦手分野というのがとくに無く、二年制の幼稚園の年長になる頃には周りよりも遥かに色々できるようになっていた。
後に苦手分野が「国語や言語」関係だとわかるが、ここまでは自転車もウンテイも一輪車もコマ回しも工作も演劇や手話や折り紙など、あらゆるジャンルがよくできた。
そのなかでもやっぱり絵が飛び抜けて上手かった。
でもこの後、ジュニア二科展(絵画部門)は長男にかっさらわれる。
そんな長女は小学校に上がると「表彰の嵐」だった。
なにか出せば賞がもらえる。
中学年くらいまでは「羨望の眼差し」で見られたが、高学年になると「長女の言い回し」に違和感を持つ子も多くなり、一人ひとりお友達が離れていって孤立していた。
6年生のときに学年崩壊をしてしまった際も、周りに同調しなかったのが長女だけで、「あいつは先生の味方だ」と陰口を叩かれ、学年単位で総スカンされてしまった。
中学校時代に「一生の友達」と言える子と出会うも成績は軒並み下がり、ついには「下から数えてウン番目」まで落ち込んだ。
遊んでいたわけではない。
その親友は今現在「外交」の仕事をするほどの秀才で、せいぜい2人でコソコソアニメの話をしている程度で、「遊び呆けてバカになった」わけではなかった。
長女は授業態度も良く、課題も100%出している上に学校への貢献度も高くて委員会にも積極的に参加していた。おまけに皆勤賞。
担任の先生に「…内申だけなら満点をつけてもいいくらいなんですが、なんでテストで結果が出ないかわかりません…」と、言われた…。
私もわかりません…。と、謎ばかりだった。
高校に入り「陶芸部」に出会い技術や感性を見込まれてから自信がついたのか、成績が一気に上がり、学年で5番以内くらいをずっとキープし初めた。
でも同級生には才能を疎まれたり、思ったままを発するので「自慢ばかり」と嫌われてまた孤立した。ASDあるある…人間関係はどん底だった。
なので、毎日休み時間になると職員室で先生たちと過ごしていたそうだ。
その代わり、なぜか後輩からカリスマ的に崇められていた。
修学旅行ではボッチ全開で、暗い顔で集合写真しか写っていない様な彼女は、卒業式のときに3、40人くらいの後輩にもみくちゃにされて両手いっぱいの花束を持って送られていた。
ここから大学を卒業するまでずっと「成績優秀者」だった。
中学時代の話を聞くと、やはり「授業の意味がわからなかった」というのが大きかったようだ。
私もそうだったが、先生の口がパクパクしているだけで内容が全然入ってこなかったそうだ。
なので自習をしてなんとかついていこうとしていたそうだが、小学校とも違って自力で全科目は「取り組み方」が分からず不可能だったらしい。
成績が上がった原因としては、中学の頃の数学の先生に「マンツーマン」で補習を受けたときに「自分なりの勉強の仕方」を習得した。と言っていた。
確かに中学の後半から、定期試験の数学だけは満点連発だった。
私もそうだったけど、発達障害などあると「捉え方」が違うので「みんなで一緒にここからここまでやりましょう」が、苦手であった。
私の学び方は「丸暗記」。
文字通り「状況、動作、映像、発言」などを一連の流れで録画をしているように記憶する。そうすると、「場面」で授業を記憶できることを知った。
つまり「授業」として教室で座り、話を聞いたりノートを取ったり「先生のペースでみんな一緒に合わせましょう」という「空間」がそもそも無理であり、「自分主義」であれば何でもできた。
これも教習所に通い始めた頃にようやく気がついた。だいぶ遅かったが…。
たぶん長女も何かしらの「やり方」がわかったのだろう。
長女が4歳のとき、次女が生まれた。
次女は信じられないほど成長が早く、2ヶ月で13kgというとんでもないおデブちゃんだった。
首が座っていないのに13kgとか米より重い。もう勘弁してほしかった。
この子が9ヶ月になり、なんと歩いた。10ヶ月には近所のショッピングセンターを走っているビデオもある。
この頃には背も伸びて、体重も変わらずだったのでスッキリとはしていた。
次女は話すのも早くて、二語文もすぐに出た。
というか話し始めた時点で「語録」が多かったので、意思疎通が早かった。
逆に5、6歳の頃の長女のほうが遅かったので、次女が2歳くらいの頃には抜かれていた。
この二人が喧嘩をすると面白かった。
次女は「バカとアホ」という汚い言葉の使い道をマスターしていた。
喧嘩になると必ず口喧嘩に持ち込んで、「だって〇〇でしょ」「だって違うじゃん」と、「だって、だって」と言い訳した挙げ句「〇〇のバカ!」とかすぐ言った。
長女は「汚い言葉」や使い道を習得していないので、次女のトリッキーな転回についていけず、「うううぅううぅーー…」と、言葉をつまらせ、
「…ぅううううぅーーーダーーーーーーーーーッツ!!!」と言ってキレるのだった。
キレると言っても、ひとりで布団をかぶって「スンスン」泣いているだけだが。
まだ色々あるが、ちょっと思い返しただけでも変わった子達だった。