ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

飛躍への道とは

今日は雨だし寒いので、午後からいつもと違うCOCO'Sへ。

いつも15〜17時位の空いている時間に行って、のんびりゲームしながら過ごす…。

 

やっていることは基本的に家にいるときと変わらないけど、外だと勉強できるという理屈なのかなんだか落ち着く。何でだろう??

さてさて…先程から「文春オンライン」を見ている。

文春自体不明瞭なので、あまり真に受けないようにしたいが面白い。

 

今読んでいるのは医者や東大生など、学力に特化している方たちにはASD/ADHDが多いという記事と対談。昨今よく聞く。

自分がどうだとかは置いておいて、「頭のいい人」を見ていると実際「そうなんだろうな…」と、思うことは多い。

 

昔から言われがちだが、「人の話を聞かない頭でっかちの医者」とか「血の通っていない医者」とか。誰でも思い当たるフシはあると思う。

これがASDであるから。と、言われると合点がいく。

もう少し踏み込むと、「世襲がアカン」理由が遺伝であったら目も当てられない…。

 

そこでは「ADHDなどの発達障害を持ちつつ高学歴の方は、現場で失敗も多く危うい」とも書かれていてドッキリした。

確かに忘れ物や、無駄な動作が多いので「繊細な作業」が向かない方もいるのだろう。

 

発達障害の特性で「過集中」というものがある。

私もあるが、長女の過集中は尋常じゃない。

彼女はサヴァン症候群も併せ持っていたので、とにかく基準以上に「できる」が心がないと言うか…サッパリした子である。

 

こういう特性が勉学に生かされれば「優秀」になるのはまぁわかるけど、「人間性」を問われると「脳の特性」であるため完璧とは行かない。

 

何で私は勉強が苦手だったかと言うと「人の話(授業)」などが始まると、耳をふさがれたように頭が真っ白になる。

相手がコイみたいに口をパクパクさせているだけに見えて、現実が「何か」に包まれたようになって内容が全く入ってこない。

なので学生時代は「できない子」であり、軒並み成績も悪く、学もないし学歴もショボい。

 

ただ前にも書いたが、20代半ばくらいにカメラアイなどで「まるごと覚えられる」事に気づいてからは、逆に「何でみんなできないんだ??」くらい満点連発で、鼻につく痴がましい存在になれた。

今はその「意味」が「ASDであったから」と理解できたが、もっと早くこの能力に気づいていれば…と、すごく後悔している。

 

今も普通に暮らしている中で疑問ばかり浮かぶ。

多くは「効率、非効率」について。

 

自分が「物を知らない」ということを自覚しているので、暇があれば色んな聴講やセミナーに出向いている。

もちろん「ただ聞いている」だけでは頭が真っ白になってしまうので、カメラアイ全開でノートには理解した構図を全部書き起こし全身全霊で吸収する。

なので終わったあとに疲労困憊で燃え尽きてしまう。

でもこれをすることでずっと忘れないし、「聞きに来た意味がある」と満足する。

 

ただ、このセミナーにしても内容だけでなく「進行やスタッフや参加者」にまで目が行くので、毎回疑問に思うことが多い。

「もっとこうすれば効率的なのに」とか「無駄話多いな」とか。

一番多いのが参加者に対して、「この人たち何しに来たんだ?」という疑問。

 

私はわざわざお金を払ったり、出向いて「学びに」行くわけだ。

確かに参加者の中には職場に「行って来い」と言われて仕方なく座っている人もいるが、多くは「自ら」そこに座っている。

 

なのに始終携帯を触っていたり、居眠りをしていたり。

それ、相手にも失礼なんじゃないか??という人が結構いる。

一番多いのは座っているだけな人。これで学べるなら羨ましい。

「障害」と認定された私がじっと座ってひたすらノートを取って学び、おそらく定型発達だと思われる人が居眠りをする。

 

なんだコレ!!

って思うことがヒジョーに多い。

 

「障害=できない」という印象が強いのもあるが、私が「倣おう」とする人たちってコレなんか??という漠然とした疑問。

こういうことを口に出すとたぶん嫌われてしまうので、いつも反芻思考で一頻り噛み砕いて流すようにしている。

 

今は「コレ」といってなりたいものがないし、自分に何ができるかも「ただの主婦」なのでわからない。

こうやって学んで行きたいけど、ゴールも目標もない。

 

人生無駄にしているなぁ…と、思いながら今日もブログを書いているのだ…。