今日は仕事がないので「PERFECT DAYS」を観てきた。
その後、昨昼から何も食べていなかったのでサンマルクでフレンチトーストを食べた。
最近私は色んな食べ物の画像を上げているが、基本「一日これしか食べていない」と思ってもらって良い。相変わらず「食べない」
…ダイエットも好調(?)で、4サイズ下がったので髪型もインナーカラーを入れて、大幅に変えようと企んでいる。
春に向けて「ちょいワル」になるんだ。筋トレしよう。
さて、「PERFECT DAYS」は役所広司さん主演の邦画だ。
カンヌとかアカデミー映画賞とかたくさん受賞している作品で、監督はドイツのヴィム・ヴェンダースという方らしい。
舞台が「浅草」界隈だったので映像に馴染みがあったが、内容としては46歳じゃ若干早くて共感しづらかった。
60歳過ぎて観ればもっと感情移入できたかも。
それと、舞台が「日本」であることが私的にちょっと陳腐だった。
海外の片田舎でのストーリーであれば、クリント・イーストウッドとかで壮大に作り上げられそう。…別物になっちゃうか。
でも、ドイツの方が作られたと思えないほど、「日本」に迎合していたし「それな」と思う表現も多彩だったが、要所要所に「アート要素」が挟まれていて「違和感」を感じてしまった。
あまり邦画で観ない表現。
役所広司さんも日本人の男性の日常にしてはスタイリッシュと言うか。
きっともっと違う見方をする映画なんだろうが、中年の私には「そうか」という感じだった。…あと15年後だな。
私的には「毎回施錠もしないし、窓も開けっ放しだし、玄関の電気つけっぱなしだなー」と、変なところが気になって仕方なかった。
タオルの位置が変わっていたり、2階は物がないのに1階は物だらけとか、突然現れた自転車が2台に増えたり。
トイレ掃除のモップを逆さにして肩に担いだときは心のなかで「ぎゃぁああああーー!」と叫んだ。
…新品でないモップを逆さに持っちゃいかん…。
余計なところばかり見ちゃう。
一番気になったのは、「トイレ掃除」のときの「ゴム手袋の長さ」である。
完全に「袖が被った状態」でいくつもの便器を念入りに掃除して、連続4日は同じ作業着を身につけ、更に毎回その作業着のまま「袖もまくらず昼食を取る」。
挙げ句、「その作業着と顔を拭いているタオルと一緒にコインランドリーの洗濯機にぶち込む」。
…汚ネェ!!
これが気になって仕方なかった…。(映画に集中して)
私も高校生の時「新宿で掃除屋さん」をやったことがあるが(ゴルゴではない)ゴム手袋は肘まであった。
この映画は「ダウン症」の方が「ダウン症」を演じることでも話題となった。
今海外では「障害者」が「障害者」を演じることが一般となされている。
ハリーポッターのゴブリンは「小人症」の方々だ。
この「できそうな障害者」を精査することが「差別」のような…。表現が難しい。
レインマンで主演のダスティン・ホフマンみたいに「健常者」が演じないことで「リアル」を追求しているのだろうか。
この役者の取り入れ方には「作り手側」にも「視聴側」にも賛否あるんだろうなと感じる。
「差別」の観点から見ると「平等」に位置付けされていることは認識するが、そもそも「通常にならえないから障害者」という前提があるため、本人もそうだが共演者や関わる人達も「扱い」に気を配らなければならない。
撮影現場は「仕事場」である以上、様々な確約にも従わなきゃならないだろうし時間の制限もあるだろう。
これに「障害者側」も従わないといけないわけだ。
「表現の場」にリアルを届ける使命は嬉しいが、実際は「想像通り」ではないのかもしれない。
企業でも「障害者枠」といって、一般の従事者に混じって「障害者も雇用しましょう」という風潮もある。
一見「平等」だけど、結局多勢に無勢。
「私達も健常者に合わせないといけない」わけで、両者精神的に潰しあってるんじゃないかと思ってしまう。
「優しさ対優しさ」の苦しみという意味で。
映画とか「見た目だけ」の世界であれば、別に「演じたって」良いんじゃないかな。
そこまで「リアル」にしてしまうと、色んな「思い」が交錯してちょっと息苦しい。
エンターテインメントの世界に幅が広がるのは良い発展だけど、「世間の一般的な認知が先」というか「考えることは多いかな」と私は思った。