ASDのただの主婦

       ASD診断前から診断後も続投ブログ。ASD目線だからこんな思考だったと後からわかるの巻。

捉え方

うちの車のドリンクホルダーに押し込まれているうさぎのぬいぐるみ。

「これぞうさぎ」って感じで見るたびに癒やされる。

…多くは語るまい…分かる人にはわかる絵面。

 

さっき移動中に「ノンストップ」を流していた。

どうも…鈴木おさむさんとは仲良くなれない気がしたのだが気のせいなんだろうか。

 

意見の相違というか似たりよったりというか、自分では判断しづらいのだが、とりあえず彼の前で私は一言も喋らないと思う。

 

今日聞いていたのは「ソフト老害」についての一端。

この言葉、先日yahooニュースでトピックが立っていたような。

「…まだ言うか」という時点で苦手だったし、その捉え方も自虐であり、上からでもあり…話の取り留めの無さが嫌だったのかも。脚本家だよね・・?

 

「今の若者」というくくりでいつの時代も問題視されがちだけど、今も昔も問題はあった。だって「15歳の夜に盗んだバイクで走り出す」んだぞ。

 

まあ時代背景とともに考えると「表現のくくり」がないと始まらないのはわかるが、差別的なので率直には受け止めたくない言葉。

今回も「今の若者の風潮は、昔の常識から逸脱していますよ」というご報告的なお話。

 

自分がバイトさんを見る肌感でいうと、「そういう世界で育ったんだから仕方ない」というのは「お互い様」。正直色んな人がいる。

「若いから」というより「個人の人間性」を問うたほうが「年齢縛り」はなくなりフェアに話せると思うのだがどうだろう。

 

多様性が物語るように、SNSなどの普及で「どうやら色んな人がいるらしいぞ」と、最近気づき始めた人類。

順序立てて考えれば「色々いて当たり前」だ。

 

手塚治虫さんや鳥山明さんが「人間と動物と宇宙人とロボット」を混同した世界観を漫画で表現されていたが、可視化すれば今だってあんな感じだ。

 

日本は多民族国家ではないし、義務教育でも「個性を潰す」教育だったため、出る杭が打たれ、更に民主主義でいつでも「マジョリティが正しい」とされてきた。

 

ゆとり世代とされた30代半ばから下なんかインターネットの普及で「情報量」が違う世界の人種なのだ。

我慢や理不尽さは「同類」を見つけて、すぐ「共感」(正当化)しちゃう。

 

大抵の人は「不満」を抱えて生きているわけだから、同調が多くなって当然。

共感が高まればそれがマジョリティになるわけで、「下積み」とされる期間も見直されて一掃されてしまう。

 

下積みがなければ「堪え性」も育たない。

…新人類の誕生だ。

 

仕方なくないか。もう。

 

確かに「試練の場」が失われつつあるわけで、人生の壁にブチ当たってからぶっつけ本番で学ぶのか。

という危うさはあるが、今はもう仕方ない。「やってみろ」としか。

今から昔のやり方をゴリ押ししたいなら、個人に焦点を当てるのではなく、携帯の電波を飛ばしている衛星を撃ち落とすしか無いだろう。

 

でも、そういう基盤で出来上がった子の中にも「分かる子」っている。

見えるところでしか判断できないので、実はオフで愚痴ばかりかも知れないが、現場で合わせられるならそれで良いんじゃないかと私は思う。

 

年代を一括りにして「昭和の考えvs宇宙人」なんてやって、どこまで「わかり合えば良しとするか」だって個人で違うわけだ。

 

裏で何言われようが「仕事」として成り立てば良いのだ。くらいのスタンスで様子みーみー「やり過ごす」しか無いんじゃないか。

若者がよく言う「効率重視」だって鼻につくが、働き方改革を唱えている今だからこそ我々も乗っかれば個人の時間も増やせる。Win-Winで良くないか。

 

昔みたいな「飲み会での腹のさぐりあい」が無くなった背景には「探らなくても大体分かる」時代に入ったからなのだろう。

これ以上自分の闇を人に見せたくない。現実が面倒くさい。体裁だけ合わせて、綺麗でいたい。真実の自分はSNSの中で出す。

こんな現実逃避の欲望が叶いそうな世の中なのだ。

その弊害は「人手不足」や「転職乱立」で立派にでているが、気づかないのだろう。

 

昔、福沢諭吉が「猿に見せるつもりで書け」と発言したそうだが、これを今どう捉えるか。

「真の意図」を自分の解釈で受け止められるか。

揚げ足取ってSNSで炎上させるか、個人名さらすか、頭ごなしに人格否定するか。

 

単純に今みんなが感じる「違和感」って年齢層はではなく、そういう「捉え方の違い」なのではないかと私は思う。