ちいかわ漫画の最新話がつらたん。
今話の主人公、ミドリちゃんが「ものづくりのジレンマ」(イノベーションのジレンマ的な)に突入して迷走しまくっている。
私自身、地味に毎日ブログを書いていても陥ったがな…。
さて、とあるCMを見て思い出した。
実は「たくさんの自分」がいる説。多重人格者とかじゃない。
簡単に言うと「内の自分と外の自分」という二面性。
これが違うように、接触するものと同数「違う自分」が存在する。
私で言うと家での自分「オリジナル」に対し、「母」「妻」「仕事場」「趣味」「PTA」などたくさんの「顔」があって、全然違う。
とくにASD丸出しになっているのは「趣味」の時。
他人との接触を避け、インストラクターとも目を合わさず「黙々と打ち込むおばさん」これがキックボクシングでの私だ。
いい意味で言えば、「繕わずに自分全開(金色の悟空みたいなイメージ)」なので、「無」になれる。ここでの目的は達成している。
ただ、周囲とは「分厚い壁」ができてしまい、明るく話し合うインストラクターと生徒さんに阻まれるとゲロ吐きそうになる。多分向こうも気まずい。
このように「社会で自分を出す」って結構副作用も激しい。
「PTA」とか「母」って「仕事」と同じような枠で、「かなりしっかりと相手の目を見て話す自分」が出現する。全部を「丸ごと記憶」しようとする。(所作や文言、情景まで)
クソ真面目で、忠実に責務を全うしようとする「完璧主義」な面が出るのもこの人格。
このときの私の脳内って独特で、液体に例えるとイメージしやすいのだろうが完全に「上と下とで分離」している。
これは「離人感」とはちょっと違う。
私は離人感に陥ると幽体離脱をしているように「周囲を上から見下ろす」イメージなので、「客観視」というのが正しい。
しかし、この時の状態は完全に「主観」でありイメージとしては「真逆」なのだ。
目線は常に「なにもない下」から「分離した上の自分」を眺めながら喋っている。
なので、下の自分(たぶん素の自分)は「・・・。」という「無」の状態がずっと続き、上の自分が勝手に回りを捌いていくイメージ。
「意思」はないけどある程度の「意向」はあって、一応「一連に沿って効率よく」捌いていく。
この状態に陥ると「複数同時に問題が置きても”問題の数だけ切り離せる”ので、一度にすべての解決策が浮かび、咄嗟に行動できる。」
簡単に言うと「家事」や「調理」の時を想像するとわかりやすい。
仕事でもそうだが「同時進行」が得意なのだと思う。
そして「妻」と「オリジナル」。
こいつらは完全に「同類」である。
例えば今の旦那と出会った時期、私は「ASD対応」であった。
目も合わさず、挨拶だけはしますが。みたいな自分。
これがどう紆余曲折して「オリジナル」まで辿り着いたか思い出したくもないが、「出会ってから同居し始めた頃」の初々しい自分がかなり「良くないタイプ」だったな。と、今振り返ると反省する。
簡単に言うと「DV男と別れない女」みたいなへりくだり方。
別に旦那は私に手を上げたこともないし、高圧的なタイプではない。
例えるなら「もんのすごい甘ったれ」というのがしっくり来る。
これは「金に甘い、自分に甘い」とかじゃなくて、「人に甘えたい」という犬猫の範疇である。
私も彼も幼い頃から「機能不全家族」であった。
詳しくは書かないが、彼はネグレクトな親に育てられ愛情不足と言うか「家族をよく知らない」面が多々あった。
ただ親が何もしないのが功を奏してか、自立が早く起業も早かったので今は社会的には充実している。
でも「精神面は幼い」のを知っていたため「この人にも家族の大切さを教えてあげたい」という良い面が逆に自分をかなり苦しめていた。
「〜すべき」の縛りだ。
だって私はASD。人に合わせるのが苦手な上に、他人の気持ちがよくわからない。
あの頃は相当自分を曲げて「自己犠牲」に走り、子どもや旦那のために尽力していた。
そしてそのタガはやがて崩壊する…。
献身的な私を心から受け入れ、安心しきった旦那の前に突如登場するオリジナルの私。
いい加減調子に乗ってんじゃねーぞ!!
お遊びは終わりなんだよ!!!(なまはげ)
さぁ「現実」
みたいな。
お陰で今は心から「自分を謳歌」している。旦那は嘔吐してそうだが。
私は「出ている部分でしか人を判断できない」ので、他人を理解することが難しいけど、みんなもきっとこうやって「いろんな自分」を駆使して社会を乗り切っているんだろうなと思う。
いろんな自分がいていいと思う。
むしろ、そうやって人格を分離させたほうが心が楽だと思う。
むかしの私みたいに「他人のために自分の居場所を得る」のは間違っている。
たくさんの顔があってもオリジナルはたった1つだ。
この「素」の自分が出せる場所を作って、大切にして欲しい。
なんだかそういうことに気づいてきた。