今朝、運転中に「ススキの事件」のニュースを聞いていた。
「歪んだ家族像」を焦点としていたが、実際「家族って歪んでいる」。
性質が異なる者同士の同居であって、家訓を通したらそれはまた「別の集合体」だ。
家族とは「閉鎖されたコミュニティー」なのだ。
これは「異常」とか「浮世離れ」の範疇ではなく、「各組織でルールが定められている」という視点によるものである。
文化や風習、代々受け継いできたもの、その家における「真髄」はそれぞれ異なる。
その中で「人間性、モラル、家族内でのアイデンティティ」こちらも個々で異なる。
とどめに「財力」。
これら基盤が異なる「家族」が社会性に触れ、環境に適応するために様々な変化をする。
もはや「同コミュニティー内でも把握は不可」こんな状態が「家族」だと思う。
でも、稀に純真な赤ん坊時代からの癒着が強いと、この「社会性」を嫌い「守りたくなる」親もいる。
これは「守る」という体の「支配」であることに気づかない。
なぜなら「絶対的な善意」の上に行うからだ。
こう育てられた因子は、「常にベールに守られた状態」で成熟する。
成長とともに発達した思考や、概念で「なんか変」を察知しつつも「現状打破」に罪悪感を覚えるようになってしまう。
だって「親意外悪いもの」だからだ。
自分も「機能不全家族」で育ち、「全てが家庭内で隠蔽」され続けていた。
なので、19歳で家を飛び出すまで「親の思想が全て」という洗脳にかかっていたことになる。
この子供に影響するレベルの「親の影響力」は、死ぬまで続くと思っている。
現に親元を離れ、27年経つが未だに当時を思い出すと動悸がして「自分の意志で」動けなくなる。
年に数回両親と会うと、金縛りにあったように「自分のテリトリー(直径1mくらいの円の中)」から出られなくなる。
これを知っているので、「宗教」とか「ねずみ講」とかの抜け出せない感覚などが理解できる。
でも、だから「私は大丈夫」なんて根拠はなくて、きっと「一番強いけど、一番弱いのかもしれないな」と自己分析している。
「絶対」なんか無いけど「客観視」は得意だから。
今回の「ススキの事件」も娘さんの「絶対的な権力」に目が行きがちだが、個人的に誘導したのは父親だと思っている。父親は精神科医だそうだ。
患者さんとはどの位置づけでのお医者さんだかは知らないが、何度か引用したニーチェの言葉通り
「怪物と戦うものは、その過程で自分自身も怪物にならないように気をつけないとならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。」
これはその通りで、「そういう病」と触れる方は、自身も無自覚のまま引きずり込まれている場合が多い。
私も「引っ張られがち」な特性があるので断言してもいい。
障害や疾患を持つ方独特の「空気感」が日常化することは、その場にいるだけでも疲弊する人もいると思う。
それは動向による疲れではなく、「見えない何か」による連鎖である。
更に「様々な特性」を持つため、「それらを一緒くたとしか理解できない者」ほど翻弄されている肌感はある。
「うわべしか見ない」からだ。
この精神科である父親も、もしかしたら「持っていかれた」タイプではないかなと勝手に推論する。母親に関しては依存性のパーソナリティー障害なのかなーと。
端から見た限りでは「やべぇ2人に服従させられ、自我を抑え込んでしまったんだな」というようにも見える。
これらは私の勝手な解釈だけど、これを世論は「特殊」と見ているところに警鐘を鳴らしたい。
「当たり前」とはなんぞやと。
「社会性があることが最優先」とされがちだが、人の心は簡単ではない。
「何と比べて、何が違うと異常なのか」基準も曖昧である。
今回の事案が「殺人」と常軌を逸したため注目を浴びているが、「家族間」なんかヨソから見れば大抵「異常」だ。隣の芝生は理解不能だらけ。
それを自覚せず「家が正しい」だけは避けて欲しい。
簡単に例えたら「納豆に砂糖を入れる家族」
「異常だ…」と思う。
でもそれを外野が咎めよう。とは思わない。
これが「その家族間でのルール」だからだ。
いろんなご家庭を見たり聞いたりして「おかしいところはおかしい、良いところはいい」この「柔軟性を持った自分なりの判断力」を磨いて欲しい。
「気づき」があれば、きっとこんな事件起きやしない。